匠雅音の家族についてのブックレビュー    皇后の近代|片野真佐子

皇后の近代 お奨度:

著者:片野真佐子(かたの まさこ)  講談社、2003年   ¥1500−

 著者の略歴−1949年生まれ。お茶の水女子大学人間文化研究科博士課程修了。博士(人文科学)。現在、大阪商業大学教授。日本近代史、近代天皇制を研究する。主な著書に、『孤憤のひと柏木義円』(新教出版社)、『近代天皇制の形成とキリスト教』(共著、新教出版社)などがある。
 小和田雅子さんが、精神に異常を来しているらしい。
天皇制という世界で最も秘密主義的かつ保守的で、
しかも最も差別的な制度を支える一員となるには、精神に異常が来すのも当然だろう。
彼女は自分のキャリアを捨てて、天皇体制の広告人になろうとしたのだから、
虐められるのは覚悟していたはずである。冷たいようだが同情はできない。
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 本書は精神に何の異常も来さずに、近代の天皇制を支えた3人の女性たちを描いたものである。
近代に入って以降は、天皇も天皇以外の人間と、同じような家族生活を営んでいる、と勘違いしやすい。
現在の天皇こそ、1夫1婦制を守っているが、
ついしばらく前の天皇には、妻と呼ばれる女性以外にも、同衾を仕事とする女性がたくさんいた。

 性の相手をするためだけに、天皇の近くに多くの女性がいたなかで、妻と呼ばれた女性もいた。
明治天皇の妻・美子(はるこ)、大正天皇の妻・節子(さだこ)、昭和天皇の妻・良子(ながこ)たちはである。
良子の晩年は、痴呆性老人となって、表にでなくなったので忘れ去られている。
彼女たちは、あまり脚光を浴びなかったが、天皇制を裏から支えた影の立て役者だった。

 世襲制をとる天皇制では、子供の誕生は不可欠の命令である。
子供が生まれなかったら、血統は絶える。
しかし、人間は必ずしも子供を産めるとは限らない。
明治天皇の妻・美子は、子供がいなかった。
そこで、子供を産むだけの役割が、明治天皇の近くの女性に期待された。
つまり支配を担わない女性たちは、支配者である男性の子供を産むことだけが、その存在理由だった。

 宮中では1873年9月に第1皇太子が誕生した。だが、この子は生まれたその日に死んでしまい、緋桃権典侍と呼ばれた生母葉室光子も、あとを追うように死亡した。つづいて11月に生まれた第1皇女も同じ運命をたどった。小桜権典侍と呼ばれた生母の橋本夏子も出産の翌日に死亡した。葉室光子は20歳、橋本夏子はまだ16歳の若さだった。P46

 これだけの女性たちや子供が次々に死んでいったのは、
近親婚のせいもあったろうが、前近代の衛生観念未発達もあったろう。
前近代では女性は命がけで子供を産んでおり、
また子供が成人するか否かは、まさに神のみぞ知るところだった。
明治になったといっても、事情は前近代といくらも変わらなかったに違いない。
こうした状態で、世襲を守るとすれば、1夫1婦的な性道徳では対応できない。

 男性の天皇側に不妊の原因があれば、
天皇に代わって密かに他の男性が、種付け役を果たしかも知れない。
また子供を孕ませることのできない天皇は、退位を迫られたかも知れない。
ここでは個人の好みは、登場のしようがない。
いずれにせよ世襲という制度は、およそ非人間的なものである。

 近代が発達してくると衛生事情が改善し、
ふつうの妊娠出産では、母子ともにそう簡単には死ななくなった。
近代の恩恵は、日本で最も裕福な天皇たちが、いち早く受けた。
妊娠出産で女性が死ななくなったので、天皇は終生の1夫1婦制の確立を指向し始める。
と同時に、天皇の妻の役割も、子供を産むことから徐々に変化し始めたのである。
 
 皇室典範により皇位継承における女性排除の論理が貫徹されたにもかかわらず、皇后にたいして「国母」であり慈母であることを期待する動きは、むしろ民間から広まっていった。岸田俊子(中島俊子)は、5月28日の皇后誕生日を前に、我々は女性であるがゆえに、男性に比べてさらに深くさらに切に皇后宮陛下を慕い奉ると述べて、女性の模範としての皇后への気持ちを率直にあらわしている。P73
 
 後に女性民権運動家として有名になる岸田俊子は、15歳で皇后の教育係として宮中に入っている。
民権運動家の資質を持つ彼女ですら、皇室の隆盛が日本人の反映に不可欠だと考えたのだろうか。

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 1908年5月、皇后は、第7回愛婦総会に再々度行啓し、以後、しばらくは日赤総会と毎年交互に出席することとした。女性団体の頂点に立つ愛国婦人会の位置は、皇后行啓とともに揺るざないものとなっていく。この後、大正、昭和の時代には、日赤と愛国婦人会の両総会への皇后行啓は、ほぼ毎年欠かさずおこなわれることとなる。
 これに呼応して、愛国婦人会が、地久節称揚をはじめたのもゆえなしとしない。1910年3月に皇族身位令が制定され、皇后の序列が正式に皇太后の上位に位置せしめられて、皇后は、名実ともに「一天万乗の天皇の御后にして、国民の国母陛下と仰ぎ奉る」女性の束ねの役となつた。P100


 核家族は近代の産物だとは、すでに周知であろう。
天皇が核家族を指向し始めたのも、近代に入ってからだった。
と同時に、子供を産むこと以外に何の役割のなかった女性にも、
天皇の妻としての役割が与えられた。
そこでは天皇制が国民宗教へと転化していくのと平行して、
妻たちも天皇教団の生母の役割を演じることになった。

 戦後、産業構造が農業が工業へと大きく変わると、
天皇の家族形態も農業に対応した大家族から、
工業に対応した核家族へと変化せざるを得なかった。
そこで天皇の妻は、ニューファミリー的な核家族での、専業主婦の役割が期待された。
大衆が恋愛結婚へと変化すれば、正田美智子氏の結婚も、恋愛結婚である必要があった。
軽井沢でのテニスがらみの恋愛が、演出されたのは周知のことである。

 農耕社会から工業社会への転換期に、
正田美智子氏が恋愛結婚から核家族への幻想を演出する役割そのものだったとすれば、
小和田雅子氏は女性が働き続けるキャリア女性の役割を担っていると言って良い。
海外の事情にも詳しい支配者たちは、庶民たちより常に一歩先を歩いて、
体制の存続を確固たるものにしようとする。
情報社会化する今、天皇の妻は、専業主婦では許されない。

 巷間では専業主婦が主流であるにもかかわらず、
近々には働く女性が主流になることは自明である。
とすれば、皇室は働く女性のイメージを先取りして、その存続を図る必要がある。
現在の皇太子の妻は、キャリア女性が望ましいので、
外務省の上級職員を強引にスカウトしたのだろう。
中年になりかかっていた小和田雅子氏は、恋人がいてもおかしくない年齢だった。
しかし、彼女の海外での異性関係も不問に付され、職業婦人のイメージが求められたのである。

 本書は3人の女性たちを描きながら、天皇制に迫ろうとしてはいる。
しかし、天皇制への基本的な視点が不確かなために、現在の天皇制には筆が届いていない。
田嶋陽子・福島瑞穂・山下悦子氏ら我が国のフェミニストは、
皇太子妃の結婚祝福宣言を声高に唱えた。
しかし、わが国のフェミニズムは差別の象徴である天皇制にたいして、まったく無力である。
いやむしろ、わが国の女性フェミニストたちは、フェミニズムとは最も遠いはずの天皇制を賛美している。

 特異な体験をした個人ならいざ知らず、同じ社会に生きる人間が、女性であるというだけで未来志向になれるはずがない。
女性たちも、いや女性であるがゆえに、社会からの拘束はより一層強く受けている。
本書はそのあたりの事情には気がつきながら、現在の天皇とその妻たちには、
まったく触れようとはしない。   (2004.5.21)
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参考:
ジェリー・オーツカ「天皇が神だったころ」アーティストハウス、2002
原武史「大正天皇」朝日新聞社、2000
大竹秀一「天皇の学校」ちくま文庫、2009
ハーバート・ビックス「昭和天皇」講談社学術文庫、2005
片野真佐子「皇后の近代」講談社、2003
浅見雅男「皇族誕生」角川書店、2008
河原敏明「昭和の皇室をゆるがせた女性たち」講談社、2004
加納実紀代「天皇制とジェンダー」インパクト出版、2002
繁田信一「殴り合う貴族たち」角川文庫、2005
ベン・ヒルズ「プリンセス マサコ」第三書館、2007
小田部雄次「ミカドと女官」恒文社、2001
ケネス・ルオフ「国民の天皇」岩波現代文庫、2009
H・G・ポンティング「英国人写真家の見た明治日本」講談社、2005(1988)
A・B・ミットフォード「英国外交官の見た幕末維新」講談社学術文庫、1998(1985)
杉本鉞子「武士の娘」ちくま文庫、1994
松原岩五郎「最暗黒の東京」現代思潮新社、1980
イザベラ・バ−ド「日本奥地紀行」平凡社、2000
リチャード・ゴードン・スミス「ニッポン仰天日記」小学館、1993
ジョルジュ・F・ビゴー「ビゴー日本素描集」岩波文庫、1986
アリス・ベーコン「明治日本の女たち」みすず書房、2003
渡辺京二「逝きし世の面影」平凡社、2005
湯沢雍彦「明治の結婚 明治の離婚」角川選書、2005

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