著者の略歴−1952年東京生まれ。立教大学大学院博士課程、日本近現代史専攻。静岡精華短期大学国際文化学科助教投。著書に『徳川義親の十五年戦争』『梨本宮伊都子妃の日記』他。 皇室典範の第1条に、「皇位は、皇統に属する男系の男子が、 これを継承する」と、うたわれているので、天皇の血族の男性しか天皇になれない。 天皇制は前近代のものだから、現代社会にはなじまない。 近代社会に天皇家を生き延びさせるために、1夫1婦制を取り入れて、側室制度を廃止した。 しかし、そのツケは大きく残っている。 昭和天皇だった裕仁が側室制度を廃止したことは、もっと注目されて良い。
裕仁の戦争責任が、あるとかないとか云々される。 もちろん彼に責任があったのは当然で、 軍部に踊らされたというのは、天皇家を存続させるための責任逃れである。 彼は日本国の裕仁ではなく、天皇家の裕仁だったから、 太平洋戦争に負けたときの最大の関心事は、わが国の存立ではなく、 天皇家の存続だったろう。 何もできない天皇を装っているが、 裕仁は皇室制度をさかんにいじっている。 女官についても、周囲の反対を押し切って、制度改革を行っている。 女官とは、天皇家の女中さんではない。 天皇のセックスの相手のことである。 明治天皇や大正天皇には、多くのセックス相手がいた。 建前上は、ある位以上の女官しか、セックスに誘ってはいけなかったが、 女性の色香に迷うには男の常である。 しかも、子供を産ませることが奨励されていれば、 天皇たちは気軽に女性に手をだした。 明治天皇も大正天皇も、正妻の子供ではない。 明治天皇と一条美子の結婚には法的規定はなく、美子が入内して「女御宣下」(天皇の寝所に侍する高位の女官であるという内輪の命令)があったのみであった。今日「古式ゆかしい」と伝えられる賢所大前での神前結婚の定式は嘉仁親王(=大正天皇)と節子の結婚以後に定まったものである。 皇室婚嫁令のみならず、近代天皇制を支えた法令の多くは明治以後に制定されたものである。P69 明治以降、天皇制を確立するために、さまざまな手段が講じられた。 とりわけ皇位の継承には、細心の注意がはらわれた。 それが側室制度で、天皇たちは多くの女性とセックスをし、多くの子供を出産させた。 しかし、その多くは小さいときに死んでしまい、なかなか育たなかった。
節子は16歳で裕仁を出産している。 つまり、大正天皇は15歳の節子とセックスをした。 15歳とは、今日の中学3年生である。 中学生のセックスを、世の親たちは奨励するだろうか。 天皇にとってはセックスが可能なら、相手の年齢など、どうでもよかった。 天皇と肉体関係をもったことにより、女官の発言力が高まり、 隠然とした権力を手にすることもあった。 また、天皇の生母であれば、発言力もました。 大正天皇の母親である柳原愛子は、大きな影響力を持ったらしいし、 「魔女」といわれた今城誼子は、裕仁の妻=良子をつうじて、さまざまに影響力を行使したという。 女官は、おおくが華族の娘から選ばれたが、例外もいた。 華族出身ではない女官で異色なのは、岸田俊子と下田歌子であろう。俊子と歌子は近代の女官のなかでも特異な存在であったが、俊子と歌子の女官辞任後の生き方はまったく対照的であった。P78 大正天皇の正妻だった節子は、裕仁、雍仁(秩父宮)、宣仁(高松宮)、祟仁(三笠宮)をつぎつぎと出産した。 多くは成人まで育たないのであるが、4人とも無事に成人した。 大正天皇は、病弱だったことも手伝って、 節子以外の女性とのあいだには、子供を残さなかった。 そうした事実を受けて、昭和天皇である裕仁は、側室制度を廃止した。 女官がセックスの相手をしなければ、彼女たちは住み込みの必要がない。 裕仁は1夫1婦制をとると同時に、 宮内大臣だった牧野伸顕の反対にもかかわらず、 女官を住み込みから通勤制に変えた。 つぎつぎと宮中の改革を進めた裕仁が、国政にだけ無関心だったとは思えない。 おそらく軍部の動向も、きちんと掌握していたに違いない。 それは2.26事件の時の、彼の発言を見てもわかる。 天皇のセックス相手以外にも、女官は必要だった。 それは乳人とよばれる女性、つまり人工栄養のなかった時代、授乳をする女性である。 当時(=昭和初期)、軍部や右翼が政治的に台頭し、牧野や一木ら天皇機関説派とよばれる宮中側近を攻撃する動きが強まっていた。なかでも、平沼騏一郎枢密院副議長は宮中側近の地位を狙っていたが、その右翼的な傾向が元老西園寺らに忌避されており、平沼は現職の宮中側近を攻撃することでその野望を遂げようとしていた。こうした政治的策謀の渦に乳人選定が巻き込まれたといえる。P184 選挙以外で選ばれた者を、政治権力の座につけることは、決して良いことはない。 どんなに名君であろうとも、身分制の害悪からは逃れられない。 血統にもとづく天皇制は、悪い制度である。 またそこに使える女官たちにも、彼女たちの人生に悪い影響しか残さない。 天皇制は、近代的な制度にはなりえない。 たとえ男の子が産まれても、時代遅れの天皇制は呻吟を続けるであろう。 (2002.12.13)
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