匠雅音の家族についてのブックレビュー    ミカドと女官−菊のカーテンの向こう側|小田部雄次

ミカドと女官
菊のカーテンの向こう側
お奨度:

著者:小田部雄次(おたべ ゆうじ)  恒文社、2001年   ¥1、800−

著者の略歴−1952年東京生まれ。立教大学大学院博士課程、日本近現代史専攻。静岡精華短期大学国際文化学科助教投。著書に『徳川義親の十五年戦争』『梨本宮伊都子妃の日記』他。

皇室典範の第1条に、「皇位は、皇統に属する男系の男子が、
これを継承する」と、うたわれているので、天皇の血族の男性しか天皇になれない。
天皇制は前近代のものだから、現代社会にはなじまない。
近代社会に天皇家を生き延びさせるために、1夫1婦制を取り入れて、側室制度を廃止した。
しかし、そのツケは大きく残っている。
昭和天皇だった裕仁が側室制度を廃止したことは、もっと注目されて良い。
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 裕仁の戦争責任が、あるとかないとか云々される。
もちろん彼に責任があったのは当然で、
軍部に踊らされたというのは、天皇家を存続させるための責任逃れである。
彼は日本国の裕仁ではなく、天皇家の裕仁だったから、
太平洋戦争に負けたときの最大の関心事は、わが国の存立ではなく、
天皇家の存続だったろう。

 何もできない天皇を装っているが、
裕仁は皇室制度をさかんにいじっている。
女官についても、周囲の反対を押し切って、制度改革を行っている。
女官とは、天皇家の女中さんではない。
天皇のセックスの相手のことである。

 明治天皇や大正天皇には、多くのセックス相手がいた。
建前上は、ある位以上の女官しか、セックスに誘ってはいけなかったが、
女性の色香に迷うには男の常である。
しかも、子供を産ませることが奨励されていれば、
天皇たちは気軽に女性に手をだした。
明治天皇も大正天皇も、正妻の子供ではない。

 明治天皇と一条美子の結婚には法的規定はなく、美子が入内して「女御宣下」(天皇の寝所に侍する高位の女官であるという内輪の命令)があったのみであった。今日「古式ゆかしい」と伝えられる賢所大前での神前結婚の定式は嘉仁親王(=大正天皇)と節子の結婚以後に定まったものである。
 皇室婚嫁令のみならず、近代天皇制を支えた法令の多くは明治以後に制定されたものである。P69


 明治以降、天皇制を確立するために、さまざまな手段が講じられた。
とりわけ皇位の継承には、細心の注意がはらわれた。
それが側室制度で、天皇たちは多くの女性とセックスをし、多くの子供を出産させた。
しかし、その多くは小さいときに死んでしまい、なかなか育たなかった。

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 ちなみに、昭和天皇の裕仁は、正妻・節子の子供であるが、
節子は16歳で裕仁を出産している。
つまり、大正天皇は15歳の節子とセックスをした。
15歳とは、今日の中学3年生である。
中学生のセックスを、世の親たちは奨励するだろうか。
天皇にとってはセックスが可能なら、相手の年齢など、どうでもよかった。

 天皇と肉体関係をもったことにより、女官の発言力が高まり、
隠然とした権力を手にすることもあった。
また、天皇の生母であれば、発言力もました。
大正天皇の母親である柳原愛子は、大きな影響力を持ったらしいし、
「魔女」といわれた今城誼子は、裕仁の妻=良子をつうじて、さまざまに影響力を行使したという。

 女官は、おおくが華族の娘から選ばれたが、例外もいた。

 華族出身ではない女官で異色なのは、岸田俊子と下田歌子であろう。俊子と歌子は近代の女官のなかでも特異な存在であったが、俊子と歌子の女官辞任後の生き方はまったく対照的であった。P78

 大正天皇の正妻だった節子は、裕仁、雍仁(秩父宮)、宣仁(高松宮)、祟仁(三笠宮)をつぎつぎと出産した。
多くは成人まで育たないのであるが、4人とも無事に成人した。
大正天皇は、病弱だったことも手伝って、
節子以外の女性とのあいだには、子供を残さなかった。
そうした事実を受けて、昭和天皇である裕仁は、側室制度を廃止した。

 女官がセックスの相手をしなければ、彼女たちは住み込みの必要がない。
裕仁は1夫1婦制をとると同時に、
宮内大臣だった牧野伸顕の反対にもかかわらず、
女官を住み込みから通勤制に変えた。
つぎつぎと宮中の改革を進めた裕仁が、国政にだけ無関心だったとは思えない。
おそらく軍部の動向も、きちんと掌握していたに違いない。
それは2.26事件の時の、彼の発言を見てもわかる。

 天皇のセックス相手以外にも、女官は必要だった。
それは乳人とよばれる女性、つまり人工栄養のなかった時代、授乳をする女性である。

 当時(=昭和初期)、軍部や右翼が政治的に台頭し、牧野や一木ら天皇機関説派とよばれる宮中側近を攻撃する動きが強まっていた。なかでも、平沼騏一郎枢密院副議長は宮中側近の地位を狙っていたが、その右翼的な傾向が元老西園寺らに忌避されており、平沼は現職の宮中側近を攻撃することでその野望を遂げようとしていた。こうした政治的策謀の渦に乳人選定が巻き込まれたといえる。P184

 選挙以外で選ばれた者を、政治権力の座につけることは、決して良いことはない。
どんなに名君であろうとも、身分制の害悪からは逃れられない。
血統にもとづく天皇制は、悪い制度である。
またそこに使える女官たちにも、彼女たちの人生に悪い影響しか残さない。
天皇制は、近代的な制度にはなりえない。
たとえ男の子が産まれても、時代遅れの天皇制は呻吟を続けるであろう。

(2002.12.13)
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参考:
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アンソニー・ギデンズ「国民国家と暴力」而立書房、1999
江藤淳「成熟と喪失:母の崩壊」河出書房、1967
桜井哲夫「近代の意味:制度としての学校・工場」日本放送協会、1984
G・エスピン=アンデルセン「福祉国家の可能性」桜井書店、2001
G・エスピン=アンデルセン「ポスト工業経済の社会的基礎」桜井書店、2000
桜井哲夫「近代の意味:制度としての学校・工場」日本放送協会、1984
田中美津「いのちの女たちへ」現代書館、2001年
ジェリー・オーツカ「天皇が神だったころ」アーティストハウス、2002
原武史「大正天皇」朝日新聞社、2000
大竹秀一「天皇の学校」ちくま文庫、2009
ハーバート・ビックス「昭和天皇」講談社学術文庫、2005
片野真佐子「皇后の近代」講談社、2003
浅見雅男「皇族誕生」角川書店、2008
河原敏明「昭和の皇室をゆるがせた女性たち」講談社、2004
加納実紀代「天皇制とジェンダー」インパクト出版、2002
繁田信一「殴り合う貴族たち」角川文庫、2005
ベン・ヒルズ「プリンセス マサコ」第三書館、2007
小田部雄次「ミカドと女官」恒文社、2001
ケネス・ルオフ「国民の天皇」岩波現代文庫、2009
H・G・ポンティング「英国人写真家の見た明治日本」講談社、2005(1988)
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ジョルジュ・F・ビゴー「ビゴー日本素描集」岩波文庫、1986
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渡辺京二「逝きし世の面影」平凡社、2005
湯沢雍彦「明治の結婚 明治の離婚」角川選書、2005
アマルティア・セン「貧困と飢饉」岩波書店、2000
紀田順一郎「東京の下層社会:明治から終戦まで」新潮社、1990
小林丈広「近代日本と公衆衛生 都市社会史の試み」雄山閣出版、2001
松原岩五郎「最暗黒の東京」岩波文庫、1988
横山源之助「下層社会探訪集」現代教養文庫、1990

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小俣和一郎「精神病院の起源」太田出版、2000
松本昭夫「精神病棟の20年」新潮文庫、2001
斉藤茂太「精神科の待合室」中公文庫、1978
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古舘真「男女平等への道」明窓出版、2000
ジル・A・フレイザー「窒息するオフィス」岩波書店、2003
三戸祐子「定刻発車」新潮文庫、2005
ケンブリュー・マクロード「表現の自由VS知的財産権」青土社、2005
フリードリッヒ・ニーチェ「悦ばしき知識」筑摩学芸文庫、1993
ソースティン・ヴェブレン「有閑階級の理論」筑摩学芸文庫、1998
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ガルブレイス「ゆたかな社会」岩波書店、1990
ヴェルナー・ゾンバルト「恋愛と贅沢と資本主義」講談社学術文庫、2000
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オリーブ・シュライナー「アフリカ農場物語」岩波文庫、2006


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