著者の略歴−1997年東北大学大学院文学研究科博士課程後期単位取得退学。2003年神奈川大学大学院歴史民俗資料学研究科博士後期課程修了、博士(歴史民俗資料学)。神奈川大学日本常民文化研究所特別研究員、神奈川大学外国語学部非常勤講師。著書に「陰陽師と貴族社会」「平安貴族と陰陽師」(ともに吉川弘文館)などがある。 紫式部の描いた平安時代の貴族といえば、 争いごとを好まず、和歌などを詠んで蹴鞠に興じていただけ、と思いがちである。 しかし、貴族が平和主義者だった証拠はない。 むしろ、農業が主な産業だった平安時代、貴族といえども暴力的だったはずである。 それを証明してくれるような本が出版された。
光源氏に象徴される平安貴族は、あくまできれいな部分だけを描いたのもで、 真実の貴族たちは切れやすく、しばしば暴力をふるったと本書はいう。 それは当然である。 農業が主な産業である社会では、肉体労働が社会を支えており、支配は肉体を通じて行われた。 だから、問題が生じたときは、肉体的な力によって解決されたはずである。 肉体優位の社会では、武力が剥き出しで行使されることによって、 柔らかくいうと武力を背景にして年貢が収税されたのであり、 今日のように源泉徴収されていたわけではない。 そのため反対も成り立った。 農業が主な産業の社会では、武力がありさえすれば、中央の支配者の意志に反して、独立王国を築くことが可能であった。 群雄割拠といわれる時代がそれで、武器軍備を各自が所持して中央政府に反抗できた。 農業という産業が、土地という生産手段を個人に所持させていたので、 土地を耕せさえすれば、周囲から孤立しても生活が可能だった。 そのため、各自は自分の領土に立て籠もることが可能だった。 つまり、他の土地に自己の生活が依存していなかったので、各自の自立を可能にしていたのである。 中央政府の力が強ければ、弱小独立国は成立し得ないが、原理的には自立が可能だった。 工業社会になると、流通から始まってエネルギーなど、すべてを中央政府が掌握するようになり、 武力を持っても独立王国が成立できなくなる。 と同時に、庶民はサラリーマンとなって、土地という生産手段を持たないので、自立的な生活が不可能になる。 そこで、暴力的な支配が不要になり、きわめて平和的な社会となった。 それにたいして、農業しかなかった平安時代は、暴力的以外に支配は成立しない。 とすれば、そこに住む人々が暴力的であることは当然であろう。 暴力を不適切に行使する不品行な貴公子は、何も藤原道長だけではなかった。光源氏のモデルと思しき道長以外の王朝貴族も、しばしばとんでもない暴力事件を引き起こしていたのである。現実世界の光源氏たち−光源氏のモデルとなった現実の王朝貴族たち−は、素行の悪い貴公子ばかりであった。P12 農業を主な産業としている社会では、武士だけが好戦的で、貴族は平和的だということはない。 一つの社会には、機軸となる価値観は一つである。 むしろ貴族こそ武力的だったはずである。 今日、電車内などで暴力事件が起きて、人々は物騒な感じをもつが、そんなことはない。 武力の所持が禁止され、法の支配が貫徹しており、現代社会は非常に平和な社会である。 しかし、農耕社会では、土地と生産手段が私有されており、 個人は権力者から自立的に生活ができた。 そのため、支配は直接的な武力によらざるを得なかった。 そして、武士には武力の所持が許されていたので、問題の解決は実力行使になりやすかった。 農業が主な産業である前近代では、腕力=武力が社会の平和を維持していた、といっていい。 平安時代とて例外ではない。 本書は、貴族たちの暴力事件を、つぎつぎと書き記していく。 1.中関白藤原道隆の孫、宮中で蔵人と取っ組み合う 2.栗田関白藤原道兼の子息、従者を殴り殺す 3.御堂関白藤原道長の子息、しばしば強姦に手を貸す 4.右大将藤原道綱、賀茂祭の見物に出て石を投げられる 5.内大臣藤原伊周、花山法皇の従者を殺して生首を持去る 6.法興院摂政藤原兼家の嫡流、平安京を破壊する 7.花山法皇、門前の通過を許さず 8.花山法皇の皇女、路上に屍骸を晒す 9.小一条院敦明親王、受領たちを袋叩きにする 10.式部卿宮敦明親王、拉致した受領に暴行を加える 11.三条天皇、宮中にて女房に殴られる 12.内裏女房、上東門院藤原彰子の従者と殴り合う 13.後冷泉天皇の乳母、前夫の後妻の家宅を襲撃する
また、現代の皇族たちが、殺人を犯すとも考えることはできない。 国会議員や皇族だけではなく、庶民にあっても上記のような事件を起こすとは思えない。 それは法という観念によって、暴力が否定されている社会だからである。 平安時代は、身分制が貫徹していたので、罪を犯した庶民は歩かされたが、 罪を犯した貴族は牛車に乗ることが許されていた。 同じ罪人であっても、身分によって処遇がまったく違っていた。 暴力事件を起こした人物も、その地位や生まれによって、責任を問われなかったりしている。 今日では、貸した金を返さないときは、道義的に責められるだろうが、 暴力をもって処されることはない。 近世ヨーロッパでは、ジョン・ハワードが「18世紀ヨーロッパ監獄事情」で描くように、 金を返さないと監獄に収監された。 しかし、平安時代はもっと過激だった。 王朝時代の貴族社会においては、債権の回収に暴力が用いられるというのは、それほど珍しいことではなかった。むしろ、相手が右の伴正遠のような悪質な債務者である場合には、王朝貴族たちは躊躇することなく暴力に訴えたようである。P169 私的な人間関係にも、しばしば暴力が登場した。 婚姻届など存在しなかった当時、庶民はもちろん貴族ですら、当人たちが婚姻関係にあるか否かは、簡単には判らなかった。 本人たちが夫婦だと思っていれば夫婦だったから、周囲の人たちが夫婦だと知らないことも多かった。 通い婚だったので、心変わりしたら、もはや夫婦ではない。 心変わりは人の常ながら、相方が同時に心変わりするとは限らない。 嫉妬がからむのも、いつの時代でも見ることができる。 そこで当時は、問題の解決に暴力が登場した。 王朝時代の貴族社会においては、前妻が後妻に暴力的に迫害を加えるというのも、そうそう珍しいことではなかったのかもしれない。だからこそ、わざわざ「後妻打」などという言葉が存在していたのではないだろうか。P210 ところで、女性たちがしばしば後妻打の暴力をふるった王朝貴族社会では、男性たちも「後夫打」とでも呼ぶべき暴力をふるうことがあったようだ。P214 本書が書き記すのは、暴力のほんの一部だろう。 戦争のような大規模な暴力を別にすれば、時代が下るに従って、人間は暴力から遠ざかりつつある。 そのうえ、情報社会に入れば、腕力の価値が無化されるので、人はますます非暴力的になっていく。 しかし、いつでも支配者は、管理化を強化するために、より強力な武力をもつものである。 貴族が非好戦的だというのは、ひょっとすると天皇制維持のための、支配のイデオロギーかも知れない。 しかし、昭和天皇は戦争を好んだのだから、けっして貴族が平和的だとは言えないはずである。 ちょっと気になったのは、こんな本を書いてしまった筆者は、学者の世界では出世は望めないだろう、ということだ。 通説に弓を引くことは、どんな社会でも爪弾きにされる。 しかし、頭の固い人たちと、立派に戦って欲しい。 切なる願いである。 (2006.4.18)
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