匠雅音の家族についてのブックレビュー    いのちの女たちへ−とり乱しウーマン・リブ論|田中美津

いのちの女たちへ
 とり乱しウーマン・リブ論
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著者: 田中美津(たなか みつ)−現代書館、2001年   ¥3000−

 著者の略歴−1943年、東京都生まれ。70年代初頭に巻き起こったウーマン・リプ運動の中心的存在。75年にメキシコで開かれた国際婦人年世界会議を機にメキシコに渡り、4年半暮らす。帰国後、東京鍼灸専門学校を卒業し、82年、治療院「女と子どものからだ育て<れらはるせ>」開設。現在、鍼灸師として活躍するかたわら、朝日カルチャーセンター(新宿)でイメージトレーニングの、毎日新開カルチャーシティ(渋谷)で「東洋医学」の講師を務めている。

 1970年頃の学生運動中、しばしば違和感に襲われた。
男子学生たちが、街頭で機動隊とやり合って大学へ戻ると、女性学生が救援対策にかけずり回っている。
男が外で暴れて、女が後衛を守る。
機動隊は全員男性で、彼らも学生とやり合う仕事が終われば、家には奥さんが待っていることだろう。
性別による役割分担、これでは機動隊と同じではないか。
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 当時の学生運動は、人間のあり方を根底的に問い直そうとしていた。
にもかかわらず、自分たちの中に、敵方とまったく変わらない男女関係があった。
これには馴染めなかった。

 想えば女は新左翼内部においてもメスとして存在してきた。カッティング、スッテング(=謄写版印刷)に始まり、「革命家」ぶった男の活動資金稼ぎ、さらには家事、育児、洗濯など氷山の見えない部分にあたる重い日常性のほとんどを、暗黙の暴力をもって押しっけられてきたのだ。(中略)バリスト(=バリケード・ストライキ)の中でさえ、飯作り、便所掃除を担ってきた女という名のメス達。母親の寛容さと娼婦の媚をもって男革命指令部を支えてきた、アンクルトムの女たち。P144

 確かに女性は非力だから、屈強な機動隊との争いには不向きである。
女性は投石も不得手だし、乱闘にも弱い。
機動隊に蹴散らされて逃げるときも、女性がいると足手まといになりかねない。
必然的に男性が外、女性が内といった役割分担ができていった。
しかし、男性の私がそれに違和感をもっていたのだから、反発を感じた女性がいて当然である。

 大学というところは、男に似せて女を作ってしまうところだ。男であることを意識したことがない、意識しないですむ歴史性をもつ男故に盲信できる近代合理主義思考。たてまえ(知識、概念)をもって肉体の本音(実感的な痛み)を殺していく時、<女であること>故の可能性は全て死ぬは道理なのだ。P274

 学生運動の敗北とともに、ある者は市民運動へ、ある者は女性運動へと、それぞれの方向へと流れていった。
筆者は、当時の運動の渦中で、既存の体制に狼煙を上げたはずの砦のなかに、男女差別を実感したのだろう。
当時アメリカから輸入されて、産声を上げたウーマンリブに、自らの場所を見いだして、のめり込んでいく。

 我が国の女性運動は、伝統的に女権拡張と同時に母権擁護が強かった。
そのため、女性であることに拘るという主張は、きわめて馴染みやすく、当時の女性たちは「女である」ことに、何の抵抗もなく拘った。
それは反体制運動だったはずの学生運動にすら、男女差別が貫徹していた以上、新たな運動が女性だけの運動へと、進んでいくのは必然でもあった。
筆者は女性たちだけの運動、ウーマン・リブへと傾注していく。

 1965年にベティ・フリーダンの「新しい女性の創造」が、我が国でも出版されており、大きな影響を与えた。
ウーマン・リブなる女性運動といっても、当時の他の運動と同様に、我が国で誕生したものではない。
西洋諸国に産声を上げたウーマン・リブの、日本バージョンだった。
そのため、女性性の止揚と言うことも、内包していた。

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 主婦と娼婦が同じ穴のむじな一族であることはよく知られた事実であるが、その日常において厚化粧の女たちを蔑視している主婦が、ため息と共に無意識に.「喰いっぱぐれたら水商売」と想うその裏には、むじな一族の、その刻印がまぎれなく、透かし視える。厚化粧の女から露骨に顔をそむけつつ、しかしその目の端で、これでまだあたしだってまんざらじやないわと自画自賛を確かめる女の、そのいやらしさの中にこそ、男を間に互いに切り裂きあってきた女の、その歴史性が、その荒野が地肌をむきだしにして視える。P14

 外来のウーマン・リブも、日本的変形を受けた。
緻密な論理よりも、情念の勝ったものへと変質した。
そして、新参であるがゆえに下品で、良識ある人たちからは、眉をひそめてみられた。
「便所からの開放」を訴える筆者の文章も、性的な禁止用語がとびかい、また下品である。
しかし、下品であることは決して卑しいことではない。
体制に背くものは、下品であることが宿命づけられている。

 <未婿の母>が現われた。風俗でも現象でもないまぎれもない事実として。メスとしてではなく、「女として」と「人間として」が同じ重さ、同じ意識をもちえる生き方を求めて、いま女は出発の歌を歌う。加賀まりこや緑魔子が問題なのではない。いままで妻として、母としてメスの生を生きるしか、この世から存在を許されなかった女たちが<未婚の母>を模索しているのだ。しかもそれは、<未婚の母>を生き方のひとつの選択として考える女たちなのだ。P31

 同時代に生きた者として、筆者の筆致は同感できる。
懐かしさを感じる。
当時、私は筆者の名前は知っていたが、筆者の書いたものは読んではいなかった。
しかし、時代がし向けたのだろう。
私も、とある同人誌に「カントはかく考える」という、似たような文章を書いている。
その後、ウーマン・リブはフェミニズムと名を変えて、今に至るが、その内実はすっかり変わってしまった。
 
 私が敬愛する上野千鶴子さん。彼女は「ウーマン・リブはしっかりと私たちのフェミニズムに継承されている」と言う。そうかなあ。継承されたのは上っつらの理屈の部分じゃないかしら。
 不埒がいのちの私のリブは、かのボディコン、スケスケルック、ガングロのヤングギャルたち、彼女らのあの過激さにそこはかとなく引さ継がれてているような……そんな気がする。
 男からの承認なんか、ハナから求めていないあのパワーに、世の顰蹙をモノともしないあの不敵さに、かつての私たちがダブって見えて、少しだけ懐かしい。P382

と筆者もあとがきに書いているが、そのとおりだと思う。
ところで、論理に欠ける我が国の女性運動から、不敵な情念がなくなったら何が残るのだろう。
約30年ぶりに復刻された本書には、上野千鶴子、伊藤比呂美、斉藤美奈子と、何人もの賛が寄せられているが、当時を知る者にとっては、それらの賛が嘘っぽく聞こえる。

 当時、不埒さ不敵さでは、「中ピ連」も、間違いなくウーマン・リブのなかにいた。
にもかかわらず解題では、榎美佐子ひきいる「中ピ連」と、田中美津らのリブの主張は無関係だと書いている。
なぜ「中ピ連」をそんなに毛嫌いするのだろうか。
上品になった大学フェミニズムに、不埒な情念がないとすれば、いまや一体何が残っているのだろうか。

 西洋諸国ではフェミニズムが根付き、1970年以降<未婚の母>は着実に増えた。
アメリカやフランスで30%、北欧諸国では50%が婚外子として生まれる。
しかし、我が国の婚外子は、統計に表れないほど少数である。
我が国の多くの女性は、企業戦士となった男性を、家の中で支える専業主婦だ。
女性の就労が増えたと言っても、その多くはパート労働者である。
大学フェミニズムの主張は、むなしく響く。

 学生運動当時、西洋諸国と我が国では、男女のあり方において、ほとんど差がなかった。
共に男女差別が強固だった。
その後、西洋諸国の女性たちは社会進出をはたした。
しかし、我が国の女性たちは性別による分業を選び、専業主婦として家庭に居続けた。
女性運動を担った人たちは、こうした現状をどう考えているのだろうか。  (2004.2.20)
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参考:
J・S・ミル「女性の解放」岩波文庫、1957
佐々木陽子「総力戦と女性兵士」青弓社、2001
山崎朋子「サンダカン八番娼館」筑摩書房、1972
ニール・ポストマン「子どもはもういない」新樹社、2001
大河原宏二「家族のように暮らしたい」太田出版、2002年
G・エスピン=アンデルセン「福祉国家の可能性」桜井書店、2001
G・エスピン=アンデルセン「ポスト工業経済の社会的基礎」桜井書店、2000
J・F・グブリアム、J・A・ホルスタイン「家族とは何か」新曜社、1997
磯野誠一、磯野富士子「家族制度:淳風美俗を中心として」岩波新書、1958
エドワード・ショーター「近代家族の形成」昭和堂、1987
黒沢隆「個室群住居」住まいの図書館出版局、1997
S・クーンツ「家族に何が起きているか」筑摩書房、2003
末包房子「専業主婦が消える」同友館、1994
賀茂美則「家族革命前夜」集英社、2003
ピーター・リーライト「子どもを喰う世界」晶文社、1995
まついなつき「愛はめんどくさい」メディアワークス、2001
奥地圭子「学校は必要か:子供の育つ場を求めて」日本放送協会、1992
信田さよ子「脱常識の家族づくり」中公新書、2001
ジュディス・リッチ・ハリス「子育ての大誤解」早川書房、2000
フィリップ・アリエス「子供の誕生」みすず書房、1980
増田小夜「芸者」平凡社 1957
岩下尚史「芸者論」文春文庫、2006
スアド「生きながら火に焼かれて」(株)ソニー・マガジンズ、2004
田中美津「いのちの女たちへ」現代書館、2001
末包房子「専業主婦が消える」同友館、1994
梅棹忠夫「女と文明」中央公論社、1988
ラファエラ・アンダーソン「愛ってめんどくさい」ソニー・マガジンズ、2002
まついなつき「愛はめんどくさい」メディアワークス、2001
J・S・ミル「女性の解放」岩波文庫、1957
ベティ・フリーダン「新しい女性の創造」大和書房、1965
クロンハウゼン夫妻「完全なる女性」河出書房、1966
松下竜一「風成(かざなし)の女たち」現代思想社、1984
モリー・マーティン「素敵なヘルメット職域を広げたアメリカ女性たち」現代書館、1992
小野清美「アンネナプキンの社会史」宝島文庫、2000(宝島社、1992)
熊沢誠「女性労働と企業社会」岩波新書、2000
ジェーン・バートレット「「産まない」時代の女たち」とびら社、2004
楠木ぽとす「産んではいけない!」新潮文庫、2005
山下悦子「女を幸せにしない「男女共同参画社会」 洋泉社、2006
小関智弘「おんなたちの町工場」ちくま文庫、2001
エイレン・モーガン「女の由来」どうぶつ社、1997
シンシア・S・スミス「女は結婚すべきではない」中公文庫、2000
シェア・ハイト「女はなぜ出世できないか」東洋経済新報社、2001
中村うさぎ「女という病」新潮社、2005
内田 樹「女は何を欲望するか?」角川ONEテーマ21新書 2008
三砂ちづる「オニババ化する女たち」光文社、2004
大塚英志「「彼女たち」の連合赤軍」角川文庫、2001
鹿野政直「現代日本女性史」有斐閣、2004
片野真佐子「皇后の近代」講談社、2003
ジャネット・エンジェル「コールガール」筑摩書房、2006
ダナ・ハラウエイ「サイボーグ・フェミニズム」水声社 2001
山崎朋子「サンダカン八番娼館」筑摩書房、1972
水田珠枝「女性解放思想史」筑摩書房、1979
フラン・P・ホスケン「女子割礼」明石書店、1993
細井和喜蔵「女工哀史」岩波文庫、1980
サラ・ブラッファー・フルディ「女性は進化しなかったか」思索社、1982
赤松良子「新版 女性の権利」岩波書店、2005
マリリン・ウォーリング「新フェミニスト経済学」東洋経済新報社、1994
ジョーン・W・スコット「ジェンダーと歴史学」平凡社、1992
清水ちなみ&OL委員会編「史上最低 元カレ コンテスト」幻冬舎文庫、2002
モリー・マーティン「素敵なヘルメット」現代書館、1992
R・J・スミス、E・R・ウイスウェル「須恵村の女たち」お茶の水書房、1987
末包房子「専業主婦が消える」同友館、1994
鹿嶋敬「男女摩擦」岩波書店、2000
荻野美穂「中絶論争とアメリカ社会」岩波書店、2001
山口みずか「独身女性の性交哲学」二見書房、2007
田嶋雅巳「炭坑美人」築地書館、2000
ヘンリク・イプセン「人形の家」角川文庫、1952
スーザン・ファルーディー「バックラッシュ」新潮社、1994
井上章一「美人論」朝日文芸文庫、1995
ウルフ・ナオミ「美の陰謀」TBSブリタニカ、1994
杉本鉞子「武士の娘」ちくま文庫、1994
ジョンソン桜井もよ「ミリタリー・ワイフの生活」中公新書ラクレ、2009
佐藤昭子「私の田中角栄日記」新潮社、1994
斉藤美奈子「モダンガール論」文春文庫、2003
光畑由佳「働くママが日本を救う!」マイコミ新書、2009


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