著者の略歴−ハーバード大学卒。本書を書いたときには、35才だった女性ジャーナリストである。大手スーパーマーケットのルポで、ピュリッツア賞を受賞している。 1960年代の後半から、アメリカでは女性運動がひろがった。 後年のフェミニズムへと続くそれはウーマンリブと呼ばれた。 ウーマンリブは大きな成果を残した。 今日ではアメリカ女性は、公的な面で性的な差別をされることが、きわめて少なくなった。 アメリカは世界でいちばん男女平等な社会である。 しかし、成果と引き替えに、燃え尽き症候群や、ストレス、精神的に不安定など、女性たちは大きな重荷を背負った。
筆者は、通俗的なフェミニズムに立っているから、女性の能力や責任は問わない。 とにかく女性をとりまく外部に、問題があるという指摘である。 現在が女性を不幸にしていると、筆者はまず現状認識する。 しかし、まずここが間違っているだろう。 どんな解放も、解放がなされると、不安定になり自信がなくなるものだ。 差別は保護の裏側だから、差別がなくなることは、保護もなくなることを意味する。 身の楽は下郎にありであって、自立した人間に悩みが多いのは当然である。 女性たちは自分の生き方を、いままで自分で決める必要が低かった。 親とか男性が決めてくれていた。 いつ結婚するかとか、どこに住むとか、女性は自分で決める必要がなかった。 男女が平等になり、女性は自分の人生を自分で決めなければならなくなった。 自立した女性が、不安になるのは当たり前である。 女性を不幸にしてきたものは断じて「平等」ではない。なぜなら、現実にはまだ平等を獲得していないのだから。そうではなくて、平等の追求を挫折させようとしたり、逆行させようとする圧力が次第に強まっていることが、女性を不幸にしているのだ。P19 筆者は女性がなぜ差別され、そして80年から90年にかけて、なぜ女性が台頭してきたか、がまったく判っていない。 女性が強くなったとか、男女は平等であるべきといった、表面的な思考しかしていないから、バックラッシュがおきたと考えている。 真の原因を求めずに、女性の台頭を男性は望んでいない、と筆者は考えているのだ。
工業社会から情報社会への転換が、肉体的な力ではなく頭脳の働きへと、人間の評価を変えた。 そのため、男女をまったく同じに扱うことが、必要になってしまった。 社会は自分の価値を、使い分けることはできない。 肉体的な劣者であっても、頭脳が優れていれば、その者を使わないと競争に負ける。 だから、女性とか男性といった区別ではなく、情報社会では個人的な頭脳の力で序列ができる。 いまや差別の対象は、性別ではなく知力である。 同時に、身体の不自由な身体障害者も、解放されたことを忘れてはならない。 差別されてきた者は、現実を公平に見ることができない。 女性たちも自分に不利だと思うと、それはすべて社会のせい、男性のせいだと外に理由を求めたがる。 しかし、本書の筆者は、男性社会が知力を求めていることが理解できない。 筆者は古い女性運動にしがみつき、男女の対立構造の中でしか社会を見ないので、 現代社会が何を要求しているか判らない。 80年代は、フェミニズムに対するバックラッシュが女性の進歩を阻んだ時代だ。ニューライトからの攻撃、レーガン政権下での法律の後退、企業の厚い壁、はたまた、マスコミやハリウッド映画が作りだす神話、広告業界が打ち出す「ネオ・トラディショナル」路線の宣伝など、一連の反フェミニズム・キャンペーンが女性の進出がこれ以上進むのを防ごうとした時代だ。P309 1980年代はアメリカが苦しんだ時代で、上記のように筆者の言うのも理解できなくはない。 しかし、80年代は産業社会が不活発になり景気が低迷した。 その理由は、情報社会化への転換にブレーキが掛かり、性別秩序から知的な秩序への再編がとまったからである。 バックラッシュと見えることは、男性が女性差別を目的として行ったことではない。 その後、情報社会が進み始めると、アメリカは好景気に沸き、社会は男女を問わなくなった。 本書に限らず、男性対女性でものを考える人が多い。 それは性という属性が固定されたものであるので、 固定的な資質にしたがった論がたてやすいからなのだ。 男性であるとか女性であることではなく、知力といった物差しを持ち込むことは、基準自体が固定されていないので、古いタイプの人には理解しにくいのである。 筆者の女性への思い入れは理解するが、 筆者のような立論では、かえって女性には不利になるだろう。 被差別者は差別者を超えられないから、男性対女性でものを見る限り、 女性は男性を乗り越えることはできない。 被差別者が既存の差別とは違う基準を体得したときに、真の解放が訪れるのである。 女性は人間である、という視点である。
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