匠雅音の家族についてのブックレビュー    バックラッシュ−逆襲される女たち|スーザン・ファルーディ

バックラッシュ
逆襲される女たち
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著者:スーザン・ファルーディ−新潮社、1994年  ¥2、000−(絶版)

著者の略歴−ハーバード大学卒。本書を書いたときには、35才だった女性ジャーナリストである。大手スーパーマーケットのルポで、ピュリッツア賞を受賞している。
 1960年代の後半から、アメリカでは女性運動がひろがった。
後年のフェミニズムへと続くそれはウーマンリブと呼ばれた。
ウーマンリブは大きな成果を残した。
今日ではアメリカ女性は、公的な面で性的な差別をされることが、きわめて少なくなった。
アメリカは世界でいちばん男女平等な社会である。
しかし、成果と引き替えに、燃え尽き症候群や、ストレス、精神的に不安定など、女性たちは大きな重荷を背負った。

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バックラッシュ―逆襲される女たち
 勝利を祝福されているはずのアメリカ女性が、どうしてこれほどの苦境に 陥らねばならないのだろう。かつてなかったほど地位が向上したのなら、 なぜ精神的に不安定なのか。何が問題なのだろう。実はこの問いこそ、80年代に広まったフェミニズム批判の出発点になって いる。すなわち、女性の苦境も精神的不安定も男女平等のせいと言いたい のだ。女性の不幸はまさしく自由の代償で、解放はむしろ女性を不自由にし た。P10

 筆者は、通俗的なフェミニズムに立っているから、女性の能力や責任は問わない。
とにかく女性をとりまく外部に、問題があるという指摘である。

 現在が女性を不幸にしていると、筆者はまず現状認識する。
しかし、まずここが間違っているだろう。
どんな解放も、解放がなされると、不安定になり自信がなくなるものだ。
差別は保護の裏側だから、差別がなくなることは、保護もなくなることを意味する。
身の楽は下郎にありであって、自立した人間に悩みが多いのは当然である。

 女性たちは自分の生き方を、いままで自分で決める必要が低かった。
親とか男性が決めてくれていた。
いつ結婚するかとか、どこに住むとか、女性は自分で決める必要がなかった。
男女が平等になり、女性は自分の人生を自分で決めなければならなくなった。
自立した女性が、不安になるのは当たり前である。

 女性を不幸にしてきたものは断じて「平等」ではない。なぜなら、現実にはまだ平等を獲得していないのだから。そうではなくて、平等の追求を挫折させようとしたり、逆行させようとする圧力が次第に強まっていることが、女性を不幸にしているのだ。P19

 筆者は女性がなぜ差別され、そして80年から90年にかけて、なぜ女性が台頭してきたか、がまったく判っていない。
女性が強くなったとか、男女は平等であるべきといった、表面的な思考しかしていないから、バックラッシュがおきたと考えている。
真の原因を求めずに、女性の台頭を男性は望んでいない、と筆者は考えているのだ。

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 女性の台頭は、男性社会が要求したのである。
工業社会から情報社会への転換が、肉体的な力ではなく頭脳の働きへと、人間の評価を変えた。
そのため、男女をまったく同じに扱うことが、必要になってしまった。
社会は自分の価値を、使い分けることはできない。

 肉体的な劣者であっても、頭脳が優れていれば、その者を使わないと競争に負ける。
だから、女性とか男性といった区別ではなく、情報社会では個人的な頭脳の力で序列ができる。
いまや差別の対象は、性別ではなく知力である。
同時に、身体の不自由な身体障害者も、解放されたことを忘れてはならない。

 差別されてきた者は、現実を公平に見ることができない。
女性たちも自分に不利だと思うと、それはすべて社会のせい、男性のせいだと外に理由を求めたがる。
しかし、本書の筆者は、男性社会が知力を求めていることが理解できない。
筆者は古い女性運動にしがみつき、男女の対立構造の中でしか社会を見ないので、
現代社会が何を要求しているか判らない。

 80年代は、フェミニズムに対するバックラッシュが女性の進歩を阻んだ時代だ。ニューライトからの攻撃、レーガン政権下での法律の後退、企業の厚い壁、はたまた、マスコミやハリウッド映画が作りだす神話、広告業界が打ち出す「ネオ・トラディショナル」路線の宣伝など、一連の反フェミニズム・キャンペーンが女性の進出がこれ以上進むのを防ごうとした時代だ。P309

 1980年代はアメリカが苦しんだ時代で、上記のように筆者の言うのも理解できなくはない。
しかし、80年代は産業社会が不活発になり景気が低迷した。
その理由は、情報社会化への転換にブレーキが掛かり、性別秩序から知的な秩序への再編がとまったからである。
バックラッシュと見えることは、男性が女性差別を目的として行ったことではない。
その後、情報社会が進み始めると、アメリカは好景気に沸き、社会は男女を問わなくなった。

 本書に限らず、男性対女性でものを考える人が多い。
それは性という属性が固定されたものであるので、
固定的な資質にしたがった論がたてやすいからなのだ。
男性であるとか女性であることではなく、知力といった物差しを持ち込むことは、基準自体が固定されていないので、古いタイプの人には理解しにくいのである。

 筆者の女性への思い入れは理解するが、
筆者のような立論では、かえって女性には不利になるだろう。
被差別者は差別者を超えられないから、男性対女性でものを見る限り、
女性は男性を乗り越えることはできない。
被差別者が既存の差別とは違う基準を体得したときに、真の解放が訪れるのである。
女性は人間である、という視点である。
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参考:
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越智道雄「孤立化する家族」時事通信社、1998
高木侃「三くだり半と縁切寺」講談社現代新書、1992年
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J・F・グブリアム、J・A・ホルスタイン「家族とは何か」新曜社、1997
磯野誠一、磯野富士子「家族制度:淳風美俗を中心として」岩波新書、1958
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S・クーンツ「家族に何が起きているか」筑摩書房、2003
賀茂美則「家族革命前夜」集英社、2003
信田さよ子「脱常識の家族づくり」中公新書、2001
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黒沢隆「個室群住居:崩壊する近代家族と建築的課題」住まいの図書館出版局、1997
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ジョージ・P・マードック「社会構造 核家族の社会人類学」新泉社、2001
S・ボネ、A・トックヴィル「不倫の歴史 夢の幻想と現実のゆくえ」原書房、2001
石坂晴海「掟やぶりの結婚道」講談社文庫、2002
マーサ・A・ファインマン「家族、積みすぎた方舟」学陽書房、2003
上野千鶴子「家父長制と資本制」岩波書店、1990
斎藤学「家族の闇をさぐる」小学館、2001
斉藤学「「家族」はこわい」新潮文庫、1997
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伊藤淑子「家族の幻影」大正大学出版会、2004
山田昌弘「家族のリストラクチュアリング」新曜社、1999
斉藤環「家族の痕跡」筑摩書房、2006
宮内美沙子「看護婦は家族の代わりになれない」角川文庫、2000
ヘレン・E・フィッシャー「結婚の起源」どうぶつ社、1983
瀬川清子「婚姻覚書」講談社、2006
香山リカ「結婚がこわい」講談社、2005
山田昌弘「新平等社会」文藝春秋、2006
速水由紀子「家族卒業」朝日文庫、2003
ジュディス・レヴァイン「青少年に有害」河出書房新社、2004
川村邦光「性家族の誕生」ちくま学芸文庫、2004
信田さよ子「脱常識の家族づくり」中公新書ラクレ、2001
菊地正憲「なぜ、結婚できないのか」すばる舎、2005
原田純「ねじれた家 帰りたくない家」講談社、2003
A・柏木利美「日本とアメリカ愛をめぐる逆さの常識」中公文庫、1998
ベティ・フリーダン「ビヨンド ジェンダー」青木書店、2003
塩倉 裕「引きこもる若者たち」朝日文庫、2002
サビーヌ・メルシオール=ボネ「不倫の歴史」原書房、2001
棚沢直子&草野いづみ「フランスには、なぜ恋愛スキャンダルがないのか」角川ソフィア文庫、1999
岩村暢子「普通の家族がいちばん怖い」新潮社、2007
下田治美「ぼくんち熱血母主家庭」講談社文庫、1993
高木侃「三くだり半と縁切寺」講談社現代新書、1992
加藤秀一「<恋愛結婚>は何をもたらしたか」ちくま新書、2004
バターソン林屋晶子「レポート国際結婚」光文社文庫、2001
中村久瑠美「離婚バイブル」文春文庫、2005
佐藤文明「戸籍がつくる差別」現代書館、1984
松原惇子「ひとり家族」文春文庫、1993
森永卓郎「<非婚>のすすめ」講談社現代新書、1997
林秀彦「非婚のすすめ」日本実業出版、1997
伊田広行「シングル単位の社会論」世界思想社、1998
斎藤学「「夫婦」という幻想」祥伝社新書、2009

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