著者の略歴−1894年、「毎日新聞」(現在の「毎日新聞」とは別)に入社し、社会探訪記者として出発する。著書「日本の下層社会」 江戸から明治に変わった頃、わが国は本当に貧しかったのだ。 ある人は、明治時代は輝いていたようにも言うが、多くの庶民は貧乏のどん底にいた。 今からはその生活は想像もつかないだろう。 わが国にスラム街があったといっても、信じることはできないだろう。 しかし、明治の中頃から戦前に至るまで、多くのスラム街が存在した。
鮫ケ橋、万年町(山伏町)、新網は東京の三貧窟なり。しかれどももし範囲を拡めて区の上において貧民の最も多く住する地を挙ぐればそれ浅草区が松葉町、神吉町、阿部川町、新福井町、福井町、北富坂町、新谷町、寿町、南松山町、千束町、聖天町、北清島町、 橋場町、馬道町、三間町、吉野町、今戸町、象潟町、田町、並木町、北三筋町、田原町、松山町等多く貧民の生活するを見るなり。P74 貧しい生活を余儀なくされた人たちに、筆者は肉薄して記述している。 おそらく実際に生活をともにするなどして、新聞に連載していたのであろう。 私たちは現在の生活があまりにも身近なために、かつての生活や外国の生活に思いをはせることは難しい。 そして、現在の生活にのみ不満を持ちがちである。 もちろん、現在の生活をより向上させるのは、誰にとっても当然の願いであり、厳しい過去でもって現在を免責することはできない。 だが、過去の生活を振り返ってみることも、あながち無駄というわけでもないだろう。 情報社会化して、国民のあいだに所得格差が広がっているという。 時代の境目では、貧富の差が広がるのが常である。 それでは、明治時代の所得とはどのくらいだったのだろうか。 総理大臣の賃銀1ケ年9600円、これを月俸とせば108円、しかして1日の給料殆んど27円弱とは相成る勘定、(中略)我地方においては、 通例3職の第1位を占むる大工は弁当持参で24〜5銭、左官は22〜3銭、これらは労役者の内でも割り合上高尚な位置を占め居候ものなれども、下って屋根葦などに至れば18〜9銭、更に綿打ちの賃銀を相聞き候えば、日に12〜3銭しか取り候わぬよし。P22
それにたいして総理大臣は、108円の月給を得ている。 比率でいえば、21.6倍である。 今日の職人の日当を2万円とすれば、月給は50万円、年収は600万円である。 現在、総理大臣の給料はいくらであろうか。 職人が今よりずっと優遇された時代でも、これだけの開きがあった。 そのうえ、貧乏人に対する差別意識は、現在よりはるかに強く、乞食や細民は人間でないかのごとくに扱われた。 貧乏人を蔑視するのは、途上国を歩くと、今でも実際に目にする風景である。 前近代では、支配者だけが人間であり、貧乏人は人間だとは見なされていなかった。 郡市町村役場の吏員が細民を軽んずること甚しきもの、怪むに足らず。彼らは直接民人に接して、一般の休戚に関する事務に預かる者というといえども、今日の我国町村行政の上においては納税延滞処分の場合に督責することあると、学齢児童を小学校に入校せしむるに多少の世話を要すると、その他1,2の場合を除けば、彼ら公吏の事務上には細民の事は対岸の火災よりも要なきなり。P165 と書いて、地方の市役所で、細民群集地を聞いても、貧民の噂ばかりして、話にならなかったと記している。 細民がいかに一般社会から見られているか、筆者はひどく慨嘆している。 細民が蔑視されていたことは、おそらく現在の比ではないだろう。 江戸時代になれば、支配者たる武士たちと、庶民の所得の開きは、もっともっと大きかったに違いない。 江戸では、庶民人口が90%を占めながら、町屋と呼ばれる居住地は50%に満たなかった。 残りの50%は、10%の支配者たちが、独占していたのである。 時代を遡れば遡るほど、貧富の差が開くと考えるべきで、古き良き時代を懐かしむのも、よくよく考えてからにしたい。 日露戦争が始まると、世の中は不景気になり、仕事が少なくなった。 細民はたちまち生活に困ったが、<兵隊めし>なるものが売り出されて、細民の糊口をしのがせたという。 <兵隊めし>とは、兵舎から出る残飯のことで、米と汁がごっちゃになったものだ。 それが1〜2銭で売られたという。実にわびしい話である。 (2003.1.10)
参考: 杉本鉞子「武士の娘」ちくま文庫、1994 H・G・ポンティング「英国人写真家の見た明治日本」講談社、2005(1988) A・B・ミットフォード「英国外交官の見た幕末維新」講談社学術文庫、1998(1985) 杉本鉞子「武士の娘」ちくま文庫、1994 松原岩五郎「最暗黒の東京」現代思潮新社、1980 イザベラ・バ−ド「日本奥地紀行」平凡社、2000 リチャード・ゴードン・スミス「ニッポン仰天日記」小学館、1993 ジョルジュ・F・ビゴー「ビゴー日本素描集」岩波文庫、1986 アリス・ベーコン「明治日本の女たち」みすず書房、2003 渡辺京二「逝きし世の面影」平凡社、2005 湯沢雍彦「明治の結婚 明治の離婚」角川選書、2005 雨宮処凛「生きさせろ」太田出版、2007 菊池勇夫「飢饉 飢えと食の日本史」集英社新書、2000 アマルティア・セン「貧困と飢饉」岩波書店、2000 紀田順一郎「東京の下層社会:明治から終戦まで」新潮社、1990 小林丈広「近代日本と公衆衛生 都市社会史の試み」雄山閣出版、2001 松原岩五郎「最暗黒の東京」岩波文庫、1988 ポール・ウォーレス「人口ピラミッドがひっくり返るとき高齢化社会の経済新ルール」草思社、2001 鬼頭宏「人口から読む日本の歴史」講談社学術文庫、2000 塩見鮮一郎「異形にされた人たち」河出文庫、2009(1997) 速水融「歴史人口学で見た日本」文春新書、2001 佐藤常雄「貧農史観を見直す」講談社現代新書、1995 杉田俊介氏「フリーターにとって「自由」とは何か」人文書院、2005 塩倉裕「引きこもる若者たち」朝日文庫、2002 横山源之助「下層社会探訪集」文元社 大山史朗「山谷崖っぷち日記」TBSブリタニカ、2000 三浦展「下流社会」光文社新書、2005 高橋祥友「自殺の心理学」講談社現代新書、1997 長嶋千聡「ダンボールハウス」英知出版、2006 石井光太「絶対貧困」光文社、2009 杉田俊介「フリーターにとって「自由」とは何か」人文書院、2005 雨宮処凛ほか「フリーター論争2.0」人文書院、2008 金子雅臣「ホームレスになった」ちくま文庫、2001 沖浦和光「幻の漂泊民・サンカ」文芸春秋、2001 上原善広「被差別の食卓」新潮新書、2005
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