匠雅音の家族についてのブックレビュー    人権、国家、文明−普遍主義的人権観から文際的人権観へ|大沼保昭

人権、国家、文明
普遍主義的人権観から文際的人権観へ
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著者:大沼保昭(おおぬま やすあき)−筑摩書房、1998年    ¥3800−

著者の略歴− 1946年山形県に生まれる。1970年東京大学法学部卒業、現在 東京大学法学部教授。専攻、国際法。主要著書:「戦争責任論序説」東京大学出版会1975年、「単一民族社会の神話を超えて」東信堂1993年、「東京裁判から戦後責任の思想へ」東信堂1997年、
 人間が身分や役割に生きていた前近代には、個人なる人間は存在しなかった。
個人である前に、男性であったり、貴族であったり、農民だった。
人間の生き方は、男性としてや、貴族としてあらわれ、個人といった生き方はなかった。
それゆえに、誰にとっても正しい生き方いったものは存在せず、貴族的な生き方と農民的な生き方は、異なったものだった。
西欧においては、もちろん生活の隅々までカソリックという宗教が、目を光らせていたことは言うまでもない。
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 近代になると、具体的な人間をつらぬいて、抽象的な個人といったものが想定され始めた。
つまり人間一般=個人といった概念が生まれた。
その個人に対応して、どんな個人にも妥当する普遍的な人権、といったものが認識され始めた。

 人権の誕生の地とされる欧州においてさえ、前近代には人権の観念は存在しなかった。前近代の欧州にあったのは、特定の集団や身分に属する人間の特定の権利であり特権であった。しはしば最初の人権文書として引かれるマグナ・カルタにあっても、そこに保障されているのは万人が享有主体とされる一般的な人権ではなく、貴族、封建領主、教会、自由人など、特定の人々の特定の権利、特権、既得権にすぎない。特定の社会的結合から切り離された個人としての人間の抽象的・一般的権利は、主権国家の形成の過程で中間権力が解体され、人間が個人として析出されて初めて存在するに至ったのである。P150

といった認識は、常識に属するだろう。また、

 欧米では長い間、女性は男性と同一の人権の権利主体とは考えられてこなかった。
 そもそも、「人権」が英語で「男の権利」でもあった「right of man」から純粋に「人の権利」を意味する「human rights」に変えられたのは、第二次大戦後のことに過ぎない。仮に、第二次大戦以前の人権に関する文書や論議に常に権利主体を男に限るという積極的な意図があったとはいえないとしても、無意識のうちに男と人間一般を同視する言葉を人権主体としていた事実それ自体のうちに、男性中心の発想があったことは否定できない。また実際にも、財産享有、遺産相続、国籍、姓など、さまざまな分野で、女性の権利は男性の権利より制限されていた。P142


 のも、もはや常識である。
だからこそ、女性は人間としての人権を求めて、フェミニズムに走ったのである。
そして、近代の入り口では男性だけが自立したので、男性だけが神殺しをしたのであり、父を殺したのである。
そして、フェミニズムの登場とともに、女性が母を殺して人権を獲得したのである。
我が国の女性フェミニストは、自立を願いながら母を殺すことが理解できない。

 人間はすべて平等だとか、男女平等だとかいったかたちで、今や人権は世界中で口にされる。
とりわけ先進国からは、途上国の人権侵害として、また途上国では先進国の横暴な文化帝国主義的として、問題にされる。
しかし前述のとおり、人間の誰でもが同じようにもっている人権とは、きわめて歴史の浅い概念である。
そして今日になっても、世界中で共有されているとは限らない。

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 西欧先進国は、国内的に人権を確立しながら、海外に対しては植民地政策をとり、有色人種や少数民族の人権をまったく無視してきた。
西欧の近代化は、少数者や女性の人権無視と、有色人種の人権抑圧のうえに、完成したと言っても良い。
わが国に対しても、不平等条約を押しつけたし、西欧人たちは本国を離れると傍若無人に振る舞った。
そのため、途上国では西欧諸国からの人権主張に、拒否反応を示すことが少なくない。
 
 「イギリスにおける労働者階級の状態」や「オリバー・ツイスト」など、19世紀の歴史を見ればわかるように、国内的にも非道い人権抑圧政策をとったがゆえに、西欧諸国の近代化は成功したのである。
また、アメリカの黒人差別は有名だった。
フランスやイギリスでは今でも、国内の黒人差別を問題視していない。
西欧諸国は自発的に人権を認めたわけではない。
そうした歴史や現実を捨象して、途上国における人権侵害を、先進国が非難するのは相当に無理がある。

 しかし、人権が抑圧された当人にとって見れば、先進国も途上国もない。
カンボジアのキリング・フィールドや、天安門広場の粛正、ルワンダやソマリアの民族浄化は、許されるものではない。
また、先進国では、自由権が人権の中心概念とされるが、自由権が保証されるためには、ある程度の社会権が確保されなければならない。

 国民国家の枠組みは近代の産物だが、国民国家自体も限界にきている。
もちろんそれに変わる概念はまだないが、人権は国民国家の概念より上位に、おかれつつあるのも事実である。

 自由権的人権への物神崇拝的態度から離れて、人権も他の観念や文化と同じ歴史的産物であるという視点からみれば、一方で文化が時代と共に変化すると主張しておきながら、他方で人権は生まれた時から不変であるという主張の誤りは明らかとなる。実際、かつて自由権と同義でさえあった人権概念は、次第に社会権を取り込み、第二次大戦後は民族自決権、さらに第三世代の人権をも含むものに変化してきた。1789年のフランス人権宣言と1966年の国際人権規約、さらに1993年のウィーン人権宣言とを比較するなら、この2世紀間に生じた人権観の変化は誰の目にも明らかである。人権は、社会的や自決権を含む包括的人権に変容することによって初めて地球的規模の普遍的人権となりえたのである。P289

といって、筆者は普遍主義的な人権観から、文際的な人権観へと、転じるべきだと主張する。
本書は、人権という難しい問題に、丁寧な腑分けを試み、穏当な方向性を示している。

 人権NGOの欺瞞性や途上国の人権侵害など、四方に目配りのきいた本書の展開には、おおむね納得する。
しかし、現状を冷静に見れば見るほど、現状維持的つまり保守的になっていくのは、やむを得ないのだろうか。
人権や国家を並べては見せたが、人権の高揚に本書はほとんど何も貢献しないように感じる。
<地獄への途は善意で敷き詰められている>という言葉を、私も筆者と共有するがゆえに、もどかしさが残ったのも事実である。
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参考:
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福岡賢正「隠された風景」南方新社、2005
イリヤ・プリゴジン「確実性の終焉」みすず書房、1997
エドワード・T・ホール「かくれた次元」みすず書房、1970
オットー・マイヤー「時計じかけのヨーロッパ」平凡社、1997
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宮本常一「庶民の発見」講談社学術文庫、1987
青木英夫「下着の文化史」雄山閣出版、2000
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ニコル・ゴンティエ「中世都市と暴力」白水社、1999
武田勝蔵「風呂と湯の話」塙書店、1967
ペッカ・ヒマネン「リナックスの革命」河出書房新社、2001
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G・エスピン=アンデルセン「福祉国家の可能性」桜井書店、2001
G・エスピン=アンデルセン「ポスト工業経済の社会的基礎」桜井書店、2000
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ポール・ファッセル「階級「平等社会」アメリカのタブー」光文社文庫、1997
橋本治「革命的半ズボン主義宣言」冬樹社、1984
石井光太「神の棄てた裸体」新潮社 2007
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エマニュエル・トッド「新ヨーロッパ大全」藤原書店、1992


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