匠雅音の家族についてのブックレビュー    団塊世代の戦後史|三浦展

団塊世代の戦後史 お奨度:

著者:三浦展(みうら あつし)  文春文庫 2007(2005)年 ¥571−

著者の略歴−1958年生まれ。消費社会研究家、マーケティング・アナリスト。一橋大学社会学部卒業。潟pルコ入社。マーケティング情報誌「アクロス」編集長を経て三菱総合研究所入社。99年、消費・都市・文化研究シンクタンク「カルチャースタディーズ研究所」設立。社会学、家族論、青少年論、都市計画論など各方面から注目されている。「下流社会」〈光文社新書〉、「団塊格差」(文春新書〉、「吉祥寺スタイル」(文拳春秋)、「『家族』と『幸福』の戦後史」(講談社現代新書)、「フアスト風土化する日本」(洋泉社新書〉、「難民世代」(NHK出版)、「格差が遺伝する!」(宝島社新書〉 など著書多数。
 団塊の世代を対象に、戦後の歩みを綴っている。
ボクが団塊の世代だから、何だか自分のことを書かれているようで、どうも座りが悪い。
団塊の世代は、人数が多いからだろうか、いろいろと話題になる。
そして、ほかの世代からは評判が悪い。
TAKUMI アマゾンで購入

 世代論が成り立つとすれば、団塊の世代はかっこうの対象である。
それは、戦中世代とか昭和ヒトケタ世代とか言われるのと、同様であろう。
また、新人類世代とか言われるのもあるのだろうか。
しかし、ちょっと気になるのは、世代か形成される必然はあっても、世代の意識でものを語るのは、危険な感じがすることだ。

 団塊の世代が、ほかの世代とちがう資質を、持っているのは事実だろう。
戦後に生まれ、戦後民主主義のなかで教育を受け、高度成長経済のなかで生きてきた。
両者が我が国で初めての体験であったから、団塊の世代がその影響を受けたことは、当然のことだ。
その結果として、特有の行動をした。

 大人になっても漫画を手放さず、ビートルズやフォークソングを愛し、学生運動にそまって、友達夫婦を作ってニューファミリーに納まった。
こうした特質は、たしかに団塊の世代が、切り開いてきたものだ。
しかし、ほかの世代と同様に、団塊の世代だって、この世代に生まれたくて生まれたわけではない。
団塊世代の特性も、時代によって作られたものではないだろうか。

 昭和ヒトケタ世代は、戦後復興、高度経済成長の中心にいた世代であるから、社会をよくしたい、豊かな社会を築きたいという意識(=利志向)が一貫して高く、そのためにしっかりと計画をたてて生きてきた。しかし老後は、その日その日を自由に、身近な人たちとなごやかに暮らしたいと思っている。非常にメリハリがあり、達成感、充実感のある人生だったといえる。
 これに対して、団塊世代は、若いときにすでに高度経済成長が達成されていたので、計画的に豊かな生活を築くという志向性が弱まり、若いときからその日その日を楽しく過ごしたり、身近な人たちとなごやかに暮らすこと、つまり「私生活主義」的なライフスタイルが可能だったのである。P176


 昭和ヒトケタ世代やそれ以前の世代が、敗戦処理をやったのであり、RAAという国策売春会社をつくり、鬼畜米英はコロッと忘れて、米兵ウエルカムとやったのだ。
ギブミーチョコレートの世代や、戦中すでに成人していた人たちが、しっかりと計画をたてて生きてきたというには、どうも疑問である。

 とはいっても、団塊の世代が無計画で、場当たり的に生きてきたという指摘は肯首する。
中学から高校へ行くにしても、向学心に燃えて入ったわけではない。
大学へはいるには、専攻を選ぶにあたって迷いはしたが、確たるライフ・プランがあって大学に入ったわけではない。
就職だって、働かなければ食えないから、就職しただけだ。
何歳のときにはどうして、老後はこうしてと、しっかりと人生計画をたてて、生きてきたわけではない。

 いまの若い人たちのほうが、きっちりとライフ・プランを立てているかも知れない。
しかし、戦前世代や昭和ヒトケタ世代が、ライフ・プランをきっちりと持っていたかというと、そんなことはないだろう。
一生懸命に働いていたら、いつのまにか歳をとったというのが真実だろう。
そして、年金がたくさんでているので、働かずに老後を過ごしているだけだろう。

広告
 ライフ・プランをきっちり描けないことにかけては、じつは、今の若者たちも大同小異ではないだろうか。
親が百姓なら子供も百姓、職人なら職人といった、身分固定的な社会なら、人生の先も想像がつく。
しかし、社会が大きく変動しているときには、何十年も先の自分を想像することは難しい。
会社に入っても、定年の頃には会社がどうなっているか判らないとすれば、ライフ・プランをたてるのはなかなか難しい。

 前の世代と比べて団塊の世代が、大家族ではなく核家族を好んだことは事実である。
核家族とは、性別による役割分担を原則とする家族であり、団塊の世代が男女別役割にしたがって行動したのは事実だろう。
しかし、その前の世代では、女性の発言権すらなかったのだ。
当サイトは性別役割分担を否定するが、性差別的な核家族をとおらなければ、男女平等へはたどり着けなかったと思う。
大家族からいきなり男女平等へとは進まなかっただろう。

 本書を読んでいて問題だと思うのは、団塊の世代の特質がなぜ形成されたかが、不問のままなことだ。
 
 団塊世代の学生運動が、安田講堂の陥落と連合赤軍の内ゲバ・リンチ事件によって終焉したあと、「しらけの時代」が訪れた。だから、大体、私くらいの世代は「しらけ世代」と呼ばれた。
 たしかに、学生運動が終わった大学や高校は、しらけた気分が蔓延していた。私の通った高校もそうだった。なにしろ教師がみな、ごりごりの日教組だったのだ。彼らにとって、しらけた私たちは、不可解な存在だった。「どうして最近の高校生は、革命を叫ばないんでしょうね」と、あからさまに叱咤する教師すらいた。しかも、授業中に。
 でも、私は思うのだ。私たちは、何もしらけたくてしらけていたのではなく、しらけさせられていたのだ。そういう教師の態度に。そして、口では革命を叫んでも、結局は大企業の就職していった奴らに。つまりは、団塊世代と、その時代に。P252


 「しらけさせられていた」というが、団塊の世代も時代に生かされていたのだ。
なぜなら、団塊の世代として生まれることを、望んで生まれたわけではない。
生まれてみたら、同じ年齢層が大量にいたに過ぎない。
その結果、幼稚園から墓場まで、一生にわたって競争を強いられている。

 核家族を作ったのは、当時の我が国の産業が、農業から工業へと転換していたからだ。
アメリカの後を追った当時の為政者が、加工貿易に邁進し、その労働者として自分たちの子供をあてがった。
それにのって育ったのが、団塊の世代である。
当時の産業が、要求していたのがアメリカ的な生活だったのだ。

 筆者は、25ページで伝統的な生活様式が崩れたと、日本らしい暮らしへの憧れを書いているが、本気だろうか。
伝統的な生活様式とは、暗い土間で煙にまみれて行う炊事だし、悪臭紛々たるトイレだし、毎日風呂への入れないようなものだった。
もちろん食生活は貧しく、乳幼児死亡率が50人以上というのが、伝統的な生活様式なのである。

 「そもそもこのフリーター、無業者の増加は、団塊世代の雇用を守るために若年雇用が抑制されたこと、彼らが子供に仕事の意味を教えなかったことが原因だ」という著者の意見に、深くうなずくに違いない。P271

と香山リカ氏が解説で書いているが、団塊世代の雇用を守ることが、政策として意識されていたのだろうか。
むしろ、中高年労働者が肩たたきにあい、かんたんに解雇されたのが真実ではないだろうか。
利潤追求の企業経営には、こうしたセンチメンタリズムが入る余地はないだろう。
また、団塊の世代には無年金者も意外に多いのだ。

 新しい社会システムをつくるべきだと思うが、それは団塊の世代だけの仕事ではなく、すべての人に科せられた仕事である。
世代論に固執することは、分裂支配に乗ることである。
フェミニズムが男性批判をして、結局、赤子も一緒に流してしまったことと同じになる。

 量から質への変化といって、人数が大量にいたから、その数パーセントでも絶対数が多いという。
これは事実だが、この論理を都合のいいときだけ、恣意的につかっている。
学生運動をしたために、サラリーマン人生を選ばなかった団塊の世代もいる。
大学を卒業した団塊世代も一色ではない。
本書の読後感は、自分たちに力がないことを認め、団塊の世代に下駄を預けているように感じる。    (2009.4.25)
広告
  感想・ご意見などを掲示板にどうぞ
参考:
ヘンリー・D・ソロー「森の生活」JICC出版局、1981
野村雅一「身ぶりとしぐさの人類学」中公新書、1996
永井荷風「墨東綺譚」新潮文庫、1993
服部真澄「骨董市で家を買う」中公文庫、2001
エドワード・S・モース「日本人の住まい」八坂書房、2000
高見澤たか子「「終の住みか」のつくり方」集英社文庫、2008
矢津田義則、渡邊義孝「セルフ ビルド」旅行人、2007
黒沢隆「個室群住居」住まいの図書館出版局、1997
増田小夜「芸者」平凡社 1957
福岡賢正「隠された風景」南方新社、2005
イリヤ・プリゴジン「確実性の終焉」みすず書房、1997
エドワード・T・ホール「かくれた次元」みすず書房、1970
オットー・マイヤー「時計じかけのヨーロッパ」平凡社、1997
ロバート・レヴィーン「あなたはどれだけ待てますか」草思社、2002
増川宏一「碁打ち・将棋指しの誕生」平凡社、1996
宮本常一「庶民の発見」講談社学術文庫、1987
青木英夫「下着の文化史」雄山閣出版、2000
瀬川清子「食生活の歴史」講談社、2001
鈴木了司「寄生虫博士の中国トイレ旅行記」集英社文庫、1999
李家正文「住まいと厠」鹿島出版会、1983
ニコル・ゴンティエ「中世都市と暴力」白水社、1999
武田勝蔵「風呂と湯の話」塙書店、1967
ペッカ・ヒマネン「リナックスの革命」河出書房新社、2001
R・L・パーク「私たちはなぜ科学にだまされるのか」主婦の友社、2001
平山洋介「住宅政策のどこが問題か」光文社新書、2009
松井修三「「いい家」が欲しい」三省堂書店(創英社)
匠雅音「家考」学文社

M・ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」岩波文庫、1989
アンソニー・ギデンズ「国民国家と暴力」而立書房、1999
江藤淳「成熟と喪失:母の崩壊」河出書房、1967
桜井哲夫「近代の意味:制度としての学校・工場」日本放送協会、1984
G・エスピン=アンデルセン「福祉国家の可能性」桜井書店、2001
G・エスピン=アンデルセン「ポスト工業経済の社会的基礎」桜井書店、2000
桜井哲夫「近代の意味:制度としての学校・工場」日本放送協会、1984
ソースティン・ヴェブレン「有閑階級の理論」筑摩学芸文庫、1998
オルテガ「大衆の反逆」白水社、1975
E・フロム「自由からの逃走」創元新社、1951
アラン・ブルーム「アメリカン・マインドの終焉」みすず書房、1988
イマニュエル・ウォーラーステイン「新しい学」藤原書店、2001
田川建三「イエスという男」三一書房、1980
ポール・ファッセル「階級「平等社会」アメリカのタブー」光文社文庫、1997
橋本治「革命的半ズボン主義宣言」冬樹社、1984
石井光太「神の棄てた裸体」新潮社 2007
梅棹忠夫「近代世界における日本文明」中央公論新社、2000
小林丈広「近代日本と公衆衛生」雄山閣出版、2001
前田愛「近代読者の成立」岩波現代文庫、2001
黒沢隆「個室群住居」住まいの図書館出版局、1997
フランク・ウェブスター「「情報社会」を読む」青土社、2001
ジャン・ボードリヤール「消費社会の神話と構造」紀伊国屋書店、1979
エーリッヒ・フロム「自由からの逃走」創元新社、1951
ハワード・ファースト「市民トム・ペイン」晶文社、1985
成松佐恵子「庄屋日記に見る江戸の世相と暮らし」ミネルヴァ書房、2000
デビッド・ノッター「純潔の近代」慶應義塾大学出版会、2007
北見昌朗「製造業崩壊」東洋経済新報社、2006
小俣和一郎「精神病院の起源」太田出版、2000
松本昭夫「精神病棟の20年」新潮文庫、2001
斉藤茂太「精神科の待合室」中公文庫、1978
ハンス・アイゼンク 「精神分析に別れを告げよう」批評社、1988
吉田おさみ「「精神障害者」の解放と連帯」新泉社、1983
古舘真「男女平等への道」明窓出版、2000
ジル・A・フレイザー「窒息するオフィス」岩波書店、2003
三戸祐子「定刻発車」新潮文庫、2005
ケンブリュー・マクロード「表現の自由VS知的財産権」青土社、2005
フリードリッヒ・ニーチェ「悦ばしき知識」筑摩学芸文庫、1993
ソースティン・ヴェブレン「有閑階級の理論」筑摩学芸文庫、1998
リチヤード・ホガート「読み書き能力の効用」晶文社、1974
ガルブレイス「ゆたかな社会」岩波書店、1990
ヴェルナー・ゾンバルト「恋愛と贅沢と資本主義」講談社学術文庫、2000
C.ダグラス・ラミス「ラディカル デモクラシー」岩波書店、2007
オリーブ・シュライナー「アフリカ農場物語」岩波文庫、2006
エマニュエル・トッド「新ヨーロッパ大全」藤原書店、1992


「匠雅音の家族について本を読む」のトップにもどる