匠雅音の家族についてのブックレビュー    「最後の社会主義国」日本の苦闘|レナード・ショッパ

「最後の社会主義国」日本の苦闘 お奨度:

著者:レナード・ショッパ   毎日新聞社 2007年  ¥1900−

 著者の略歴− ヴァージニア大学政治学部教授。政治学博士。専攻は日本政治と政治改革の国際比較。1962年、米国生まれ。宣教師の息子として来日、子供時代を北海道で暮らす。ジョージタウン大学卒業後は英語教師として熊本に滞在。1989年、オクスフォード大学で政治学博士号を取得。ヴァージニア大学助教授、準教授を経て現職。慶応義塾大学客員助教授、東京大学と国際基督教大学の客員研究員(フルブライト・リサーチ・フェロー)も務めた。《著書》EducationReform in Japan: A Case of Immobilist Politics(Routledge,1991)【邦訳『日本の教育政策過程1970〜80年代教育改革の政治システム』小川正人監訳、三省堂、2005】,Bargaining with Japn : What American Pressure Can and Cannot Do(Columbia University Press,1997),Social Contract Under Stress : The Middle Classes of America, Europe, and Japan at Turn of the Cebtury(共編:RussellSage,2002)、『対立か協調か 新しい日米パートナーシップを求めて』(共著:読売新聞社調査研究本部訳、中央公論新社、2002)。ホームページhttp://people.virginia.edu/~ljs2k/
 現在、景気が上向いており、我が国は再び上昇期にはいったと言う人がいる。
が、我が国が情報社会化への適応に、失敗していることは間違いない。
問題の所在がどこだかが判っていないから、情報社会化になぜ失敗しているかが、日本人によって書かれることはないだろう、と思っていた。
アメリカ人の筆になった本書は、我が国の苦悩をよく分析している。
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 我が国では問題が生じると、あたかも元来から悪かったように見られる。
たとえば、男尊女卑だって、人種差別だって、それが当たり前だった時代には、それを支える社会的な必要性があった。
男女の肉体的な違いが、生産力の維持や種族の保存に有意だった時代には、男尊女卑でなければ誰も生きていけなかった。

 男性が個体維持的な肉体労働を担い、女性が種族保存的な家事労働を担うという、役割分担が不可避だった。
この役割分担がある社会では、男女差別がないと男女ともに生きていけなかった。
男女差別が存在したから、男女ともに生きながらえてこれたのである。
かつては男尊女卑は正しいことだった、といっても過言ではなかった。
それが産業構造の変化によって、男女が平等でないとやっていけなくなった。

 今でこそ評判の悪い<性別役割分担>や<談合><護送船団方式><終身雇用>だが、戦後の高度経済成長の時代には、最適の社会制度だった、と本書はいう。

 日本が築きあげたシステムでは、政府の出費によって所得を再分配したり、公益事業を通じてケアを提供したりするのではなく、おもに企業と家庭(とくに女性)の負担によって、給料や手当、介護や育児などのケアに関する安全ネットが用意された。日本の秘密は、規制、税金、手当、受益基準のシステム化によって、企業が「終身雇用」の方針をとるように仕向け、それを可能にさせたことだった。この方針のもとで、おもなはたらき手である男性従業員は生涯の職場が保障され、女性は家庭にとどまって子供や介護の必要な老人や病人の世話をするのが当然とされた。一人一人がカを合わせ、足並みをそろえて日本経済を成長させることがなにより大事だった。それはまさに、ゆっくりと、だが着実なスピードで前進していく船団であり、政府は規制介入という手段を通してこの船団の護衛をしていたのである。(中略)
 このシステムは、日本社会における弱者労働者とその家族も含むを保護するためにつくられたものでもあった。会社を存続させれば、その会社が保護する従業員や取引先もまもられるからである。護送船団式資本主義は、ヨーロッパの福祉国家と同じく、生産性と保護の要素を両立させ、相互に補強させていた。
 日本の高度成長期には、このシステムがうまく働き、成長と平等という奇跡の組み合わせが生まれた。だが、1990年代になると、ソ連式の社会主義と同様、このシステムは齟齬をきたしはじめた。P16 


 家族論を扱う女性たちには、この認識が決定的に欠けている。
あたかも男女平等や男女同一労働が、普遍的な正義であるように語る。
だから、社会的な生産関係への視線が脱落し、希望だけを脳天気楽に振りまくことになる。
反対に、保守的な男性論者は、いままでのシステムは間違っておらず、一部の修正が必要なだけだ、という仕儀に陥る。

 高度成長経済があまりにも強烈な成功体験を与えたので、我が国はその拘束から逃れることができないでいる。
筆者は、A・ハーシュマン「離脱・発言・忠誠−企業・組織・国家における衰退への反応」を引用しながら、<退出>と<声>という概念を使いながら、我が国の現状を説得的に分析していく。

 旧来の社会論は、不満がある人たちは、それを改善すべく運動をする、もしくは改善運動をすべきだ、といった。
しかし、現状に不満があっても、必ずしも変革運動が起きるとは限らない。
当該の社会から退出することが容易であれば、変革運動に力を注ぐのではなく、個人的に去るだけだという。
<退出>の方法は、企業にあっては国外への進出=海外逃避だし、女性にあっては非婚・未婚や子なしという選択だという。

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 労働基準法の改変や、解雇の自由を求めるのではなく、高賃金の国内労働者をさけて、企業は海外の安い労働者を求めていく。
規制の多い国内市場よりも、海外市場に活動の自由を求めていく。
改革を求めて困難と闘うのではなく、<退出>するのだ。その結果、国内産業の空洞化を招く。
また、女性たちは、結婚+子育てという困難を避け、非婚・晩婚を選ぶか、結婚しても子供をもたない選択をしていく。
行き着く先は、もちろん少子化である。
   
 現行の制度のもとで困難に直面させられた女性のほとんどは、出産と仕事のどちらかをあきらめるという道を選び、結果として、仕事と家庭の両立をもとめて闘う女性団体や、社会制度の抜本的改革を訴える女性団体の登場にはつながらなかった。こんにち日本には突出したふたつの女性団体があるが、どちらも男性が稼いで女性が家事をするような制度を打ち壊して、現状にもっと適した制度を導入するよう強硬に訴えるようなものではない。P266

 誰もが老人となる。
老人介護には、<退出>という選択肢がなかった。
そのため、介護から逃れたかった女性たちは、介護保険の獲得のために戦った。
しかし、個人の女性にとって、子育ては回避できる。
独身を選べば、仕事と子育ての両立から逃れることができる。
だから<退出>となって、変革の<声>にはならなかった。
しかし、子育ての回避は、永遠に続けるわけにはいかない。

 人口統計と財政の現状を考慮すれば、日本がしっかりとしたマクロ経済路線の方向へと舵をとる唯一の方法は、生産性を向上させ、女性と移民の労働力人口ヘの加入を奨励し、仕事と家庭を両立させて、より多くの子供のもてる家庭をつくる、といった基本的な社会改革、経済改革を採用することである。もし本書で述べたような限定的退出の傾向がつづき、その結果として政策過程がこうした改革を採用できなかったとしたら、人口統計と財政の締め付けはいっそうきつくなって、退出傾向はほんものの「出口ヘの殺到」危機へと発展し、出生率の急激な低下、大量の海外移転、国債市場の信用崩壊、資本逃避を併発するだろう。P348

 気ままな独身生活を求めて、独身を続ける女性は増えるだろう。
非婚が増えることは間違いない。
しかし同時に、女性が結婚しても、一流企業に勤める男性の専業主婦となれば、収入は安定し優雅な生活が楽しめる。
だから、男性の雇用が終身雇用である限り、女性の結婚への<退出>は続くだろう。
女性の立場は、非婚と専業主婦の2つに分解し、改革への<声>にはならない。

 終身雇用が崩れて、男性の雇用が不安定になったり、離婚が増加するようになれば、女性の退路は断たれる。
独身で自活できなければ、女性の生活が不可能になる。
これこそ1980年代に、西洋先進国の女性たちが直面した状況だった。
自活の生活が可能になって、改めて子供へと眼が向いたのだ。
生活が立ちいかなくなって初めて、我が国の女性たちも、自立を求めて立ち上がるだろう。

 本書の結論部分だけは、必ずしも悲観的ではないが、全体から読みとれるものは決して楽観的ではない。
<終身雇用>を守ろうとするトヨタやキャノンの存在、核家族を守ろうとする為政者たち。
むしろ我が国は、情報社会の負け犬へと一直線であり、どこで立ち直れるか。
<退出>が改革の<声>へと転じるのは可能か。

 情報社会の新たな雇用制度や、単家族を指向しない我が国をみるがゆえに、本書は悲観的なトーンに終わっている。
現状認識がシャープであるだけに、返す言葉がないのが読後感である。
 (2007.10.18)
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参考:
松下竜一「風成(かざなし)の女たち」現代思想社、1984年
アマルティア・セン「貧困と飢饉」岩波書店、2000
クライブ・ポンティング「緑の世界史 上・下」朝日新聞社、1994
鈴木邦男「公安警察の手口」ちくま新書、2005年
ジョン・ハワード「18世紀ヨーロッパ監獄事情」岩波文庫、1994
鮎川潤「少年犯罪 ほんとうに多発化・凶悪化しているのか」平凡社新書、2001
アンソニー・ギデンズ「国民国家と暴力」而立書房、1999
戸部良一ほか「失敗の本質:日本軍の組織論的研究」ダイヤモンド社、1984
ジル・A・フレーザー「窒息するオフィス」岩波書店、2003
菊澤研宗「組織の不条理−なぜ企業は日本陸軍の轍を踏みつづけるのか」ダイヤモンド社、2000

ソースティン・ヴェブレン「有閑階級の理論」筑摩学芸文庫、1998
オルテガ「大衆の反逆」白水社、1975
E・フロム「自由からの逃走」創元新社、1951
桜井哲夫「近代の意味:制度としての学校・工場」日本放送協会、1984
長坂寿久「映画で読むアメリカ」朝日文庫、1995
M・ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」岩波文庫、1989
アンソニー・ギデンズ「国民国家と暴力」而立書房、1999
江藤淳「成熟と喪失:母の崩壊」河出書房、1967
桜井哲夫「近代の意味:制度としての学校・工場」日本放送協会、1984
G・エスピン=アンデルセン「福祉国家の可能性」桜井書店、2001
G・エスピン=アンデルセン「ポスト工業経済の社会的基礎」桜井書店、2000
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アラン・ブルーム「アメリカン・マインドの終焉」みすず書房、1988
イマニュエル・ウォーラーステイン「新しい学」藤原書店、2001
ポール・ファッセル「階級「平等社会」アメリカのタブー」光文社文庫、1997
橋本治「革命的半ズボン主義宣言」冬樹社、1984
石井光太「神の棄てた裸体」新潮社 2007
梅棹忠夫「近代世界における日本文明」中央公論新社、2000
小林丈広「近代日本と公衆衛生」雄山閣出版、2001
前田愛「近代読者の成立」岩波現代文庫、2001
黒沢隆「個室群住居」住まいの図書館出版局、1997
フランク・ウェブスター「「情報社会」を読む」青土社、2001
ジャン・ボードリヤール「消費社会の神話と構造」紀伊国屋書店、1979
エーリッヒ・フロム「自由からの逃走」創元新社、1951
ハワード・ファースト「市民トム・ペイン」晶文社、1985
成松佐恵子「庄屋日記に見る江戸の世相と暮らし」ミネルヴァ書房、2000
デビッド・ノッター「純潔の近代」慶應義塾大学出版会、2007
北見昌朗「製造業崩壊」東洋経済新報社、2006
小俣和一郎「精神病院の起源」太田出版、2000
松本昭夫「精神病棟の20年」新潮文庫、2001
斉藤茂太「精神科の待合室」中公文庫、1978
ハンス・アイゼンク 「精神分析に別れを告げよう」批評社、1988
吉田おさみ「「精神障害者」の解放と連帯」新泉社、1983
古舘真「男女平等への道」明窓出版、2000
ジル・A・フレイザー「窒息するオフィス」岩波書店、2003
三戸祐子「定刻発車」新潮文庫、2005
ケンブリュー・マクロード「表現の自由VS知的財産権」青土社、2005
フリードリッヒ・ニーチェ「悦ばしき知識」筑摩学芸文庫、1993
ソースティン・ヴェブレン「有閑階級の理論」筑摩学芸文庫、1998
リチヤード・ホガート「読み書き能力の効用」晶文社、1974
ガルブレイス「ゆたかな社会」岩波書店、1990
ヴェルナー・ゾンバルト「恋愛と贅沢と資本主義」講談社学術文庫、2000
C.ダグラス・ラミス「ラディカル デモクラシー」岩波書店、2007
オリーブ・シュライナー「アフリカ農場物語」岩波文庫、2006
エマニュエル・トッド「新ヨーロッパ大全」藤原書店、1992

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