匠雅音の家族についてのブックレビュー     昭和天皇|ハーバート・ビックス

昭和天皇 お奨度:☆☆

著者:ハーバート・ビックス   講談社学術文庫
     上 2005年(2002年) ¥1350−
     下 2006年(2002年) ¥1400−

 著者の略歴−1938年,米国マサチューセッツ州生まれ。ハーバード大学にて歴史学および東洋言語学の博士号取得。30年にわたり日本近現代史に関する著述活動の一方,日米の大学で日本史を講じてきた。2001年まで一橋大学大学院教授をつとめた後,現在はニューヨーク州立大学ビンガムトン校教授。
 昭和天皇だった裕仁に、戦争責任があるのは明らかであるにもかかわらず、
我が国では彼の責任を検討する声がない。
それどころか、天皇や皇室を批判の対象にすること自体が、タブーと化してしまっている。
裕仁の戦争責任を記述して、本書は冷静な分析であり、星を2つ献上する。
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 天皇を検討の俎上にのせることに、どんなマイナスがあるというのだろうか。
権威の源として、天皇に神秘性をもたせていたほうが、支配するには都合が良いのだろうか。
天皇たちの支配意欲と、天皇の権威を借りたい有産階級たちの願望が一致し、天皇タブーをつくっているのだろう。

 立憲君主制だから、天皇は国政に参与できず、政治家や軍人が支配していた、と誰が信じることができるだろうか。
天皇が戦争を止めさせることができたのなら、当然に戦争を始めることもできたはずである。
戦前の我が国は、立憲君主制ではなく天皇親政だった。
自分の過去と向き合えないものは、真っ当な将来など語ることはできない。

 軍部が戦争へと独走して、裕仁は追認せざるをえなかった、
と今の支配者たちが言い、マスコミはそれに同調する。
軍部の命令を拒否すれば、自分の命が危なかっただって! 
メクラ判を押すように強迫されたから、自分の命を守るために、国民を戦地へと派遣しただって! 
何とも立派な裕仁である。

 本書は、裕仁の関心は国民にあったのではなく、
自分と皇室の繁栄だけを望んでいた、と徹底的に記述していく。
この視点が当然なのだ。
天皇家は近代国家より、はるかに長い歴史をもっており、
自分たちの繁栄は近代国家の射程をこえている。
彼にとって、国民より皇室への忠誠が、優先するのは当然のことだ。 

 裕仁にとって、自分と皇室の繁栄のために、国民は存在するのである。
国土も国民も、自分のためなら他国に売り渡しても、一向に構わない。
皇室の存続のためなら、国民の半分くらいが死んでも、何の痛痒も感じない。
それが天皇の本心だろう。自分の安楽な生活を維持するために、税金を払う国民にいい顔をしているだけだ。

 本書は、裕仁がどのように教育され、天皇になっていったかから記述が始まる。
裕仁はふつうの話し方ができなかった。
彼は華奢で非力な身体しかもたず、落ち着きがなく、それでいて粘着質の性格だった。
とすれば、教育に目がいくのは、当然だろう。
 大正天皇が病弱だったので、彼は1921年20歳で摂政になる。

 1923年の初め、摂政は国防方針の改定を承認したが、それは統帥部の長から詳細な説明を受けてのことであった。
 まず同年2月17日、両統帥部長は沼津の御用邸で彼に改定帝国国防方針の草案を報告した。摂政は翌日これを最高軍事諮問機関である元帥府に諮問した。2月21日、元帥奥保筆が沼津を訪ねて摂政に奉答し、25日、彼は総理大臣の加藤に草案を内覧させた。そして最終的に28日、摂政は両統帥部長を再度沼津に呼び、草案への許可を与えた。このように、彼は改定国防方針にむやみに判を押したのではなく、「十分に納得したうえで」裁可したのである。この納得のゆく説明を受けなければ裁可しないという姿勢は、天皇になったのちも彼の基本的な手法になった。P176


 メクラ判を押せば、あとで自分の首を絞めることになる。
どこの社長だって、メクラ判を押さない。
支配の原則を決めるのに、誰がメクラ判を押すだろうか。
天皇無答責であっても、絶対にメクラ判は押さない。
裕仁は支配者として、当然の行動をとっている。

 裕仁は天皇に就任してからも、お妾さんの廃止など、廻りの反対をおしきって、さまざまな改革を実施している。
 
 それに続いて河井は、稲作の労に従事し、農業恐慌下の農民の窮状に心寄せる若き天皇という印象を広めようと、宮廷に新しい儀式を導入した。彼は天皇に宮中で稲を育てることを提案したのである。天皇は賛成し、赤坂御所の中にそのための水田が拓かれた。1927年6月14日、彼は国内各地から提供された苗で最初の田植えの儀式を行った。即位が済んで彼が住まいを宮城に移すと、70坪の乾田と80坪の水田が儀式用に造成された。P206

 裕仁は、取りまきたちから助言を得るだけではない。
軍事作戦に関して、とにかく攻撃的であった。
軍隊を動かすうえで原則をもっていなかった。
彼の唯一の原則は、結果OKだった。

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 関東軍の前進部隊は中国軍に数で圧倒されているため増派が必要であると考え、天皇は事態を既成事実として容認した。天皇は臣下の軍隊が帝国の版図を拡大しようとすることに格別に反対しなかったのである。たとえ、統帥権干犯の事実があろうと、作戦の首尾が良ければ、よしとしたのだった。P265

 以後数年間、天皇は満州事変や上海事変に功績のあった軍人や官吏約3000人に勲章を与え、彼らの昇進を認めた。両事変には、海外とは反対に国内では絶大な支持があった。関東軍司令官本庄繁、陸軍大臣荒木貞夫、海軍大臣大角写生には男爵の爵位が与えられた。天皇が満州における陸軍の作戦全般を支持したことは、命令に従わなかった軍を罰しなかったことと明らかに一致するのである。P273

 裕仁がもっとも恐れたのは、日本軍の敗北ではなく、日本軍のクーデターであった。
クーデターによって、秩父宮などが裕仁を退位させることを、もっとも恐れたのだ。
中国大陸で、軍隊が占領に成功すれば、間違いなく彼の地位を強固にする。
そう考えれば、2.26事件をはじめ、彼の行動は納得できる。

 一般の政治と、統帥権が別系統となっていた。
だから、戦争に突入すれば、天皇の強権が強化されるのは当然である。
天皇以外に統治を統一できる立場はない。
たとえ天皇機関説をとっても、明治憲法下で支配を統合できるのは、天皇しかいない。
裕仁が積極的に支配していたことは間違いない。

 このように(廬溝橋)事件を見てゆくと、政府が軍部により戦争へと引きずられたとは言いがたい。むしろ、陸軍の1グループに支持された近衛が小さな事件を利用し、中国軍に打撃を与え、北京−天津地方の支配を固めるというさらに大きな目的への転換を決意したというのが正確である。近衛は、ここにおいて天皇の積極的な支持を受けたのである。天皇は静養を切り上げて宮城に戻り、情勢報告に注意深く耳を傾けていた。P361

 本書は、細菌兵器の使用に許可を与え、真珠湾攻撃に許可を与えた、という。
当然だろう。
そして、戦争中も戦況や国民の動向を、詳細に把握していたという。

 最後に昭和天皇は通常、1週間に2、3回、宮中にスクリーンを設けて国内外のニュース映画や映画を見る習慣を続けていたという事実を指摘しておこう。天皇は検閲を受けていた日本の日刊紙に目を通しており、軍指導者に新聞で読んだことについて、しばしば厳しい質問をしていた。このようにして、天皇は戦争の真相のみならず、検閲後の報道や、徹底的に「洗脳されていた」日本人が受け取っていた報道についても知っていたのである。
 早くも真珠湾攻撃の直前までには、統帥部は、天皇に十分な情報を提供するよう膨大な時間を費やすようになっていたが、このため作戦や戦略立案に携わる軍高官の能率は下がり始めていた。例えば、第一部長はその職務の大半を、昭和天皇が事態の進展についてゆけるようにするために費やしていた。そのため、作戦や戦略の立案という本来の職責に没頭することができなかった。1941年から陸軍参謀本部に勤務していた井本熊男は、このような天皇の戦争指導の体制が、意図せざる結果として日本の敗因となつたと見ている。下−P48

 敗戦にあたり、裕仁は誰よりも「国体」に執着した。
退位へと追い込まれる恐れがなくなって、はじめて彼は新憲法にしたがった。
しかし、裕仁の資質は、戦後になっても変わっていない。

 日本全国に無制限の軍事力を展開できるようにすることを望んだダレスは、日本がアメリカの譲歩を引き出そうとすることを警戒した。しかし吉田は、独立後の日本におけるアメリカの特権を制限する努力を形式的にさえ行わず、すんなりと受け入れた。アメリカは基地と治外法権を獲得し、さらに日本は5万人規模の「代用」軍隊までも創設することになった。明らかに吉田は無能だった。しかし、基地の貸与によって影響力を確保したり、アメリカは親切心から日本に軍隊を残すのだというダレスの主張を論破したりするべきはずのこの交渉で、吉田の立場が弱かったのは、彼自身の不手際もあったが、それ以上に天皇の介入のもとで折衝しなければならなかったためである。下−P350

 戦後になっても、新憲法を無視して、裕仁は自ら政治を行おうとしている。
それは、増原防衛長官の発言で明らかになっている。

 明治天皇は優れていたと考え、自分はヘボな支配者だった、とは思った。
裕仁には、明治天皇から引き継いだ領土を、大きく減らした自責の念はあった。
自分の先祖にたいしては責任を感じていただろうが、
他の誰にたいしても道徳的な責任を感じていなかった。
彼には近代国家という意識はなく、神権的な君主と考えていたはずである。

 裕仁を合理的な思考をもった近代人と考えることは無理だ。
ヌエ的だからこそ、敗戦をはさんだ長い年月を、生き延びることができたのだ。
原則をもった支配者なら、敗戦で行き詰まったはずである。
彼には支配者としての原則はなかった。
時流にのる、強い者に従うという生き方しかなかった。

 本書の記述には、ほとんど賛同する。
戦前戦後をつうじて、裕仁は生き方を変えることはなかった。
彼にとって統治はゲームにすぎず、戦後にはゲームを取り上げられただけだ。
裕仁の戦争責任を追及しないことが、冷戦当時のアメリカの利益だった。
そのためアメリカが、天皇の戦争責任を追及させなかったという記述は、本書の慧眼だろう。

 ジョン・ダワーの「敗北を抱きしめて」も、本書と同じことを言っている。(2007.12.7)
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参考:
M・ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」岩波文庫
S・ミルグラム「服従の心理」河出書房新社、1980
繁田信一「殴り合う貴族たち」柏書房、2005年 
田中美津「いのちの女たちへ」現代書館、2001年
ジェリー・オーツカ「天皇が神だったころ」アーティストハウス、2002
原武史「大正天皇」朝日新聞社、2000
大竹秀一「天皇の学校」ちくま文庫、2009
ハーバート・ビックス「昭和天皇」講談社学術文庫、2005
片野真佐子「皇后の近代」講談社、2003
浅見雅男「皇族誕生」角川書店、2008
河原敏明「昭和の皇室をゆるがせた女性たち」講談社、2004
加納実紀代「天皇制とジェンダー」インパクト出版、2002
繁田信一「殴り合う貴族たち」角川文庫、2005
ベン・ヒルズ「プリンセス マサコ」第三書館、2007
小田部雄次「ミカドと女官」恒文社、2001
ケネス・ルオフ「国民の天皇」岩波現代文庫、2009
H・G・ポンティング「英国人写真家の見た明治日本」講談社、2005(1988)
A・B・ミットフォード「英国外交官の見た幕末維新」講談社学術文庫、1998(1985)
杉本鉞子「武士の娘」ちくま文庫、1994
松原岩五郎「最暗黒の東京」現代思潮新社、1980
イザベラ・バ−ド「日本奥地紀行」平凡社、2000
リチャード・ゴードン・スミス「ニッポン仰天日記」小学館、1993
ジョルジュ・F・ビゴー「ビゴー日本素描集」岩波文庫、1986
アリス・ベーコン「明治日本の女たち」みすず書房、2003
渡辺京二「逝きし世の面影」平凡社、2005
湯沢雍彦「明治の結婚 明治の離婚」角川選書、2005
アマルティア・セン「貧困と飢饉」岩波書店、2000
紀田順一郎「東京の下層社会:明治から終戦まで」新潮社、1990
小林丈広「近代日本と公衆衛生 都市社会史の試み」雄山閣出版、2001
松原岩五郎「最暗黒の東京」岩波文庫、1988
横山源之助「下層社会探訪集」現代教養文庫、1990


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