匠雅音の家族についてのブックレビュー    <現代家族>の誕生−幻想系家族論の死|岩村暢子

<現代家族>の誕生
幻想系家族論の死
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著者:岩村暢子(いわむら のぶこ)  勁草書房 2005年 ¥1800−

  1953年北海道生まれ、法政大学卒業。現在 株式会社アサツー ディ・ケイ 200]ファミリーデザイン室室長
 1960年以降生まれの人々を対象とした継続的な調査研究に基づき,現代の家庭や社会に起きるさまざまな現象を読み解くことをテーマとしている。主な著書に『変わる家族変わる食卓 真実に破壊されるマーケティング常識』(勁草書房2003年),『普通の家族がいちはん怖い 徹底調査!破滅する日本の食卓』(新潮社 2007年)がある。

1960年以降に生まれた主婦の食卓を調査したら、その食卓は崩壊していたらしい。
そこで、その食卓の崩壊の原因を調べようと、その主婦たちの母親たち40人を調査したものだ。

母親が若い主婦を育てたので、親の顔が見たいというわけである。

 現代主婦151人の中から、年齢、学歴、職業、世帯収入、居住地、世帯構成、子供年齢などについて偏りのない40人を抽出し、その実の母親を対象として行った訪問による詳細面接調査(1人平均2時間余り)である。
 調査期間は、2004年3月から3ケ月間。協力してくれた40人の母親たちの年齢は、最高齢が77歳であったものの、他は73歳から54歳の間で、平均年齢は64.5歳。ちなみにその娘たちの年齢は29歳から44歳で、平均年齢36.5歳であった。P4


 同じ筆者による「普通の家族がいちばん怖い」に、本サイトは否定的な評論をした。
筆者が言うのは事実だろうし、食生活が入り乱れてきたのは事実だろう。
そして、その原因が1960年以降に生まれた主婦たちを育てた女性たちにあるのも事実だろう。
しかし、筆者の論にどうしても抵抗があるのは、筆者が食事が崩れていると言えば言うほど、では崩れる前の正統(?)な食卓とは何なのかを疑問に思うからである。

 戦後の物資不足の時代に子供時代を過ごしたので、本来なら親が作ってくれた「家庭の味」を知らずに育ってしまったのが、この母親たちだったという。
本来の家庭の味を知らないから、日本の食卓(?)を子供に受け継がせることができなかったという。
この母親たちは、昔ながらの日本の食を原点として育ってはいないという。

 しかし、昔ながらの日本の食は、そんなに素晴らしいものだったのだろうか。
また、日本全国の食卓が美味しさに満ちたものだったのだろうか。
食卓を崩壊させたのは、戦後の欠乏時代に育った世代に特有の現象であり、戦後世代以外は豊かな食生活に恵まれてきたと考えているのだろうか。

 本サイトは決してそうは考えていない。
日本人の全員が白米を食べられるようになったのは、戦後の食管制度ができてからだ。
悪名高き日本軍に入って、はじめて白米を食べたという人もたくさんいた。
群馬のお切り込み、山梨のごほうとうなどは、貧しかった地域で何とか生きてこようとして生まれた料理ではなかったのか。(現代のお切り込みには、肉も入っているので美味しい)
肉も入っていないこうした料理は少しも美味くないから、現代人はそのままでは食べようとはしないだろう。

 <幻想系家族論の死>というサブタイトルが付いているが、本書はかつては全国的に正統で、美味しく栄養のバランスも良い食卓があったという、家族幻想に基づいているように感じる。
そんなものはなかったから、現代人は昔の日本食に戻ろうとはしないのではないか。

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 母親は家事を教えなかったというが、日本の伝統文化は教える術を持っておらず、教わる方が見よう見真似で技術を体得したものだ。
たとえ徒弟修業にでて親方の元で修業しても、親方は教えることができなかった。
弟子たちは技術を見ることができる環境にいるから、修業期間中に試行錯誤しながら、何となく技術を身につけていく。
決して親方は教えてくれはしないのだ。

 家事も同様だった。親は家事を教えるのではなく、子供を家事をしなければならない環境に置くだけだ。
教えられなかった親方と同様に、親は子供を教えることができない。
そこで子供は試行錯誤しながら、自力で家事を身につけていく、それが日本の技術伝承の伝統なのである。

 筆者の観察は厳しい。
娘の主婦たちは、カップラーメンとプチトマトの朝食にしたり、冷凍食品の詰め合わせの弁当を持たせているのに、母親たちは自分の娘は、キチンとした食事をつくっていると信じて疑わない。
いくら現実を見せつけても、ウチの娘も同様だろうと考える母親は10%しかいないと言う。
残りの90%の母親は、こんなことをしているのはごく一部で、自分の娘はこんなことはしていないと言う。

 自己を相対的に見ることのできないこうした反応は、ボクもほんとうに困ったことだと思う。
しかし、これはこの世代の母親に特有のことだろうか。
教える術を体系化しなかった日本文化に、固有の特徴ではないだろうか。
自己相対化できないのは、母親に限らず父親だってそうだ。
老若男女を問わずそうだったから今時の戦争に進んで、しかも負けてしまったのではないだろうか。

 お正月になると、どの家庭でもその家に伝わる御節料理でお祝いをしているものだ、と私たちは思っている。そして「御節料理」とは、地方によって多少の違いはあれ、基本的には重箱に詰められた伊達巻、蒲鉾、黒豆、田作り、きんとん、紅白なます、昆布巻き、数の子、海老や鯛、そして煮しめなどを指すのであろうと考えている。昔から日本の「御節料理」とはそのようなものであったはずだと。ものの本にも、江戸時代から日本の御節はそのような形として伝承されているとよく書かれている。P220

と筆者は言うが、古来からそんなことはなく、庶民の家庭には、今日のようなお節料理はなかったのが真実ではなかったか。
お切り込みやごほうとうなどの貧しい食生活の中で、正月だけは保存食品で暮らそうとしたのが、お節料理だったのではないか。

 それは筆者も承知しており、次のように言う。

 今の若い主婦(娘世代)が、御節を作らないことを指し、日本の伝承を彼女たち若い世代が崩しているかのように語る人もいるが、それは本当は正しくない。もともとあのような御節はごく一部の家にしかなかったのである。テレビや雑誌、売り場が創り出した「日本の伝統的な御節」の姿を見て、母親世代の多くが一時期こぞって真似したことがあるために、「どの家にも昔から伝えられていた」かのように皆が思っただけなのである。P226

 しかし、本書を読んでいると、皆が思ったのではなく、筆者がそう思っていたように感じる。

 高度経済成長以降サラリーマン家庭が増え、家族は生産の場であることを止めてしまった。
かつての家庭は生産の場でもあったから、生産が要求してくる生き方から逃れることができなかった。
また生産力が低かったから、肉体労働が中心であり家事もそれにならって肉体を使うものだった。
しかし、今日では情報化が進み、家事も肉体労働が不要になってきた。

 以上に考えると、生産が規定する生き方とは、現地に足を付けることだから、各地方ごとに違ったものになる。
また、季節ごとに違ったものになるは当然である。
専業主婦の多い今日のような家庭では、生活の仕方を決める外的な規制はないのだ。
筆者は専業主婦について次のように言っている。
  
 当時(1950年代から70年代半ばまで)は、専業主婦を志向する女性が増加していたが、それは必ずしも保守的な男女分業化社会ゆえの不自由な選択だったわけではないようだ。(中略)専業主婦になれば、仕事を持っていない分「家事に専念できる」からではなく、「専業主婦は自分の自由が確保しやすい」からと言った母親もいる。その意味では母親世代にとっての専業主婦志向は、戦後の自由・男女平等の教育を受けた女性たちならではの「自分ペースが叶う」結婚への憧れでもあり、昔の女たちのように「女は我慢すべきもの、人に従うべきもの」とか「結婚したら家族のために尽すもの」という古い価値観では生きたくないという進歩的な意志の表れでもあったのであろう。P266

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 斉藤美奈子が「モダンガール論」でも言っていたが、女性たちは嬉々として専業主婦になったと言うべきだろう。

 食が崩れたと筆者は嘆いているが、日本的原形の食事などなかった。
簡略化しているのは事実だが、崩れたとは言えないのが真実ではなかったか。
冷凍食品や外食が多いと言っても、アジアの女性たちは昔からテイク・アウトをしているし、アメリカ人の弁当はパンにピーナツバターを付けただけである。

 本書を読んだ感想は、筆者の<幻想系家族論>が芯だと言うに留まるものである。
素晴らしい日本的な原形があると、信じている日本原理主義者の妄想を読んでいるような感じすらした。
(2008.12.16)
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参考:
下田治美「ぼくんち熱血母主家庭 痛快子育て記」講談社文庫、1993
ジョン・デューイ「学校と社会・子どもとカリキュラム」講談社学術文庫、1998
大河原宏二「家族のように暮らしたい」太田出版、2002
G・エスピン=アンデルセン「福祉国家の可能性」桜井書店、2001
G・エスピン=アンデルセン「ポスト工業経済の社会的基礎」桜井書店、2000
J・F・グブリアム、J・A・ホルスタイン「家族とは何か」新曜社、1997
磯野誠一、磯野富士子「家族制度:淳風美俗を中心として」岩波新書、1958
エドワード・ショーター「近代家族の形成」昭和堂、1987
黒沢隆「個室群住居」住まいの図書館出版局、1997
S・クーンツ「家族に何が起きているか」筑摩書房、2003
奥地圭子「学校は必要か:子供の育つ場を求めて」日本放送協会、1992
信田さよ子「脱常識の家族づくり」中公新書、2001
高倉正樹「赤ちゃんの値段」講談社、2006
デスモンド・モリス「赤ん坊はなぜかわいい?」河出書房新社、1995
ジュディス・リッチ・ハリス「子育ての大誤解」早川書房、2000
フィリップ・アリエス「子供の誕生」みすず書房、1980
伊藤雅子「子どもからの自立 おとなの女が学ぶということ」未来社、1975
エリオット・レイトン「親を殺した子供たち」草思社、1997
ウルズラ・ヌーバー「<傷つきやすい子ども>という神話」岩波書店、1997
編・吉廣紀代子「女が子どもを産みたがらない理由」晩成書房、1991
塩倉裕「引きこもる若者たち」朝日文庫、2002
ピーター・リーライト「子どもを喰う世界」晶文社、1995
ニール・ポストマン「子どもはもういない」新樹社、2001、
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瀬川清子「若者と娘をめぐる民俗」未来社、1972年
赤川学「子どもが減って何が悪い」ちくま新書、2004
浜田寿美男「子どものリアリティ 学校のバーチャリティ」岩波書店、2005
本田和子「子どもが忌避される時代」新曜社、2008
鮎川潤「少年犯罪」平凡社新書、2001
小田晋「少年と犯罪」青土社、2002
リチヤード・B・ガートナー「少年への性的虐待」作品社、2005
広岡知彦と「憩いの家」「静かなたたかい」朝日新聞社、1997
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塩倉 裕「引きこもる若者たち」朝日文庫、2002
瀬川清子「若者と娘をめぐる民俗」未来社、1972
ロイス・R・メリーナ「子どもを迎える人の本」どうぶつ社、2005
瀬川清子「若者と娘をめぐる民俗」未来社、1972年

イヴォンヌ・クニビレール、カトリーヌ・フーケ「母親の社会史」筑摩書房、1994
下田治美「ぼくんち熱血母主家庭 痛快子育て記」講談社文庫、1993
芹沢俊介「母という暴力」春秋社、2001
編・吉廣紀代子「女が子どもを産みたがらない理由」晩成書房、1991


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