著者の略歴−カリフォルニア大学バークレー校,修辞学/比較文学の教授。哲学専攻。主な著書に,「欲望の主体」「問題なのは肉体だ」「権力の心的生活」「触発する言葉」がある。 フーコーなどを引用しながら、性別(=セックス)と性差(=ジェンダー)の違いを、えんえんと論じている。 文章が読みにくく、何を言いたいのだか、よく判らない部分が多々ある。 訳文のせいだけではなく、原文も修飾的で持って回った表現なのだろう。
どうやら筆者は、生物的な性別=セックスも、文化的・政治的なものだと言いたいようだ。 女性という性別があって、それが性差=ジェンダーとしての女性の担い手になるのではなく、ジェンダーとしての女性が先に存在すると言いたいのだろうか。 もしそうだとすれば、この関係は認識論としてみれば、特別に新しいことを言っているのではない。 物としてのリンゴがあるのではなく、リンゴと名付けたから、リンゴと理解されるのである。 それと同じことで、女性という生き物が存在するのではない。 ジェンダーの視点で女性と認識されてはじめて、生き物としての女性は女性と認識されるのだ、ということになる。 つまり、性別と性差のあいだに、観念の作業を入れて、性別と性差を転倒させたのだ。 セックスそのものがジェンダー化されたカテゴリーだとすれば、ジェンダーをセックスの文化的解釈と定義することは無意味となるだろう。ジェンダーは、生得のセックス(法的概念)に文化が意味を書き込んだものだと考えるべきではない。ジェンダーは、それによってセックスそのものが確立されていく生産装置のことである。そうなると、セックスが自然に対応するように、ジェンダーが文化に対応するということにはならない。ジェンダーは、言説/文化の手段でもあり、その手段をつうじて、「性別化された自然」や「自然なセックス」が、文化のまえに存在する「前−言説的なもの」−つまり、文化がそのうえで作動する政治的に中立的な表面−として生産され、確立されていくのである。「セックス」が本来的に社会構築されたものでないとみなす考え方は、第二章のレヴィ=ストロースと構造主義についての議論で問題にしていくが、この時点ですでに明らかになっている事柄は、セックスの内的安定性やその二元的な枠組みを打ちたてるのにもっとも効果的な方法が、じつは、セックスの二元体を言説以前の領域に追いやることだということである。セックスを前−言説的なものとして生産することは、ジェンダーと呼ばれる文化構築された装置がおこなう結果なのだと理解すべきである。P29 認識論としては、これはこれで有効な場合もある。 しかし、筆者は女性であることを、男性にたいして強化するために、こうした論法を使っている。 本文を読んでいて、論理的な追求の結果、事実と観念が転倒したのではなく、自己の論を証明するためであることが透けて見える。 そのため、何だか鼻白んでしまう。 こうした論理を持ちださざるを得ない事情は、フェミニズムの行き詰まりがある。 本国で本書が上梓されたのは1990年だから、すでに女性論者のなかで分裂が見られたのだろう。 女性本質主義者の論が、途上国の女性たちから批判を浴び、女性を一枚岩として捕らえることができなくなっていた。 元来、フェミニズムは裕福な生活をしていた、先進国の主婦から誕生したものだ。 先進国に住んでいると言うだけで、途上国の男性や女性に抑圧者となってしまう。 先進国の住人であると言うことと、女性であることが二律背反になってきた。 そのため、女性であることにこだわる女性本質主義が成立しなくなってきた。 性別としての女性であることから離れるために、本論のような技巧的な論が誕生したのだ。 わたし自身が固く信じていることは、ウィティッグが異性愛と同性愛のあいだに設けた根本的な不連続は、断じて真実ではないということである。異性愛の関係のなかにも、精神的な同性愛の構造があり、ゲイやレズビアンのセクシエアリティや関係のなかにも、精神的な異性愛の構造がある。さらには、ゲイであり、かつストレートであるようなセクシュアリティを構築し、構造化している権力/言説の中心点は、このほかにもいろいろある。異性愛は、セクシエアリティを説明する権力の、唯一の強制的な表出ではない。ウィティッグが異性愛契約の規範や基準として記述している首尾一貫した異性愛という理念は、彼女自身が指摘しているように、不可能な理念であり、一種の「フエティッシュ」である。P216 といいながら、ゲイとホモの区別をしておらず、同性愛を一般としてとらえている。 あたかもゲイが大昔から、異性愛に対するものしてあるかのようだ。 異性愛では男女の権力関係が露わになってしまい、女であることを基礎にする女性本質主義にいってしまう。 そこで、平等な同性愛を、異性愛に対置したいのだろう。 しかし、ゲイという同性愛は最近になってうまれたものだ。 大昔から存在したのは、ホモと言われる同性小児愛である。 ホモとは年長の男性が年少の少年を、性的に愛するものである。 かつては一種の通過儀礼だったが、現在では犯罪である。 それにたいして、ゲイとは同じくらいの年齢の同性が愛しあうもので、近代の平等思想の産物である。 異性愛とホモという同性愛は、男女が権力関係として現れるのと、年長者と年少者が権力関係として現れるのは、まったく同じ構造である。 男性年長者が少年に挿入する行為は、現代にいうゲイではない。 社会的上位者である男性が、下位者である女性に挿入することと、まったく同じ構造である。 行為主体である男性にとって、下位者であればよく、相手の性別は問題にならない。 だから成人男性が、女性と年少男性の両方を相手にするといっても、バイセクシャルではない。 ゲイという同性愛は、下位者を相手にするのではなく、横並びの同性を相手にしているがゆえに、きわめて近代的なものだ。 女性のゲイもいはするが、男性のゲイのほうが圧倒的に多い。 女性の同性愛はきわめて少ない。 年長の女性が年少の女性と、性的な関係を結ぶことは、あり得なかったと言っても過言ではない。 女性の同性愛は、男性ゲイに比べると現代でも少ない。 男性の性文化に拮抗するために、女性の同性愛をとりあげるが、この立論は無理である。 主体という概念を捨てたいらしいが、関係性の思考へとも行きついていない。 男女という二項対立的な思考に反論したいのだろうが、事実と観念の転倒をつかうと、本論のように事実に足をすくわれてしまうことに注意すべきだ。 <注記>本サイトは、現代の同性愛=ゲイの出発は、異性に対する嫌悪や、同性に対する愛着が立脚点ではない、と思っている。 ゲイとは年齢秩序が崩壊し、平等指向が強まったことによって、横並びの人間を指向した結果、誕生したものだ。 つまりゲイとは、性別を軸にして考えるものではない。 ホモは上下関係、ゲイは横並び関係であり、ホモとゲイを同じ同性愛と論じることはできない。 高齢者が偉くて、若年者は偉くないという年齢秩序が崩壊し、同年齢の同性指向が開放されたことにより、ゲイが誕生したのだ。 男性も女性も同性指向のメンタリティは同質で、男性の同性愛と女性の同性愛を別の名前で呼ぶ必要はない。 そのため、レズビアンという言葉をつかわずに、同性愛を男女ともにゲイと呼ぶ。 (2009.10.12) 感想・ご意見・反論など、掲示板にどうぞ 参考: フランチェスコ・アルベローニ「エロティシズム」中央公論 1991 ジョルジュ・バタイユ「エロスの涙」ちくま学芸文庫、2001 オリビア・セント クレア「 ジョアンナの愛し方」飛鳥新社、1992 石坂晴海「掟やぶりの結婚道 既婚者にも恋愛を!」講談社文庫、2002 梅田功「悪戦苦闘ED日記」宝島社新書、2001 謝国権「性生活の知恵」池田書店、1960 プッシー珠実「男を楽しむ女の性交マニュアル」データハウス、2002 生出泰一「みちのくよばい物語」光文社、2002 赤松啓介「夜這いの民俗学」明石書店、1984 福田和彦「閨の睦言」現代書林、1983 田中優子「張形−江戸をんなの性」河出書房新社、1999 佐藤哲郎「性器信仰の系譜」三一書房、1995 アンドレア・ドウォーキン「インターコース」青土社、1989 カミール・パーリア「セックス、アート、アメリカンカルチャー」河出書房新社、1995 シャノン・ベル「売春という思想」青弓社、2001 シャノン・ベル「セックスワーカーのカーニバル」第三書館、2000 アレクサ・アルバート「公認売春宿」講談社、2002 バーン&ボニー・ブーロー「売春の社会史」筑摩書房、1991 編著:松永呉一「売る売らないはワタシが決める」ポット出版、2005 エレノア・ハーマン「王たちのセックス」KKベストセラーズ 2005 正保ひろみ「男の知らない女のセックス」河出文庫、2004 ロベール・ミュッシャンプレ「オルガスムの歴史」作品社、2006 菜摘ひかる「恋は肉色」光文社、2000 ヴィオレーヌ・ヴァノイエク「娼婦の歴史」原書房、1997 ケイト・ミレット「性の政治学」ドメス出版、1985 ディアドラ・N・マクロスキー「性転換」文春文庫、2001 赤川学「性への自由/性からの自由」青弓社、1996 佐藤哲郎「性器信仰の系譜」三一書房、1996 ウィルヘルム・ライヒ「性と文化の革命」勁草書房、1969 田中貴子「性愛の日本中世」ちくま学芸文庫 2004 ロビン・ベイカー「セックス・イン・ザ・フューチャー」紀伊國屋書店、2000 アンナ・アルテール、ベリーヌ・シェルシェーヴ「体位の文化史」作品社、2006 石川弘義、斉藤茂男、我妻洋「日本人の性」文芸春秋社、1984 石川武志「ヒジュラ」青弓社、1995 佐々木忠「プラトニック・アニマル」幻冬社、1999 村上弘義「真夜中の裏文化」文芸社、2008 赤松啓介「夜這いの民俗学」明石書店、1994 岩永文夫「フーゾク進化論」平凡社新書、2009 ビルギット・アダム「性病の世界史」草思社、2003 メイカ ルー「バイアグラ時代」作品社、2009 イヴ・エンスラー「ヴァギナ・モノローグ」白水社、2002 橋本秀雄「男でも女でもない性」青弓社、1998 エヴァ・C・クールズ「ファロスの王国」岩波書店、1989 能町みね子「オカマだけどOLやってます」文春文庫、2009 島田佳奈「人のオトコを奪る方法」大和文庫、2007 工藤美代子「快楽(けらく)」中公文庫、2006 ポール・モネット「ボロウド・タイム 上・下」時空出版、1990 ジェシ・グリーン「男だけの育児」飛鳥新社、2001 伊藤文学「薔薇ひらく日を 薔薇族と共に歩んだ30年」河出書房新社、2001 モートン・ハント「ゲイ:新しき隣人たち」河出書房新社、1982 リリアン・フェダマン「レスビアンの歴史」筑摩書房、1996 尾辻かな子「カミングアウト」講談社、2005 伏見憲明+野口勝三「「オカマ」は差別か」ポット出版、2002 顧蓉、葛金芳「宦官」徳間文庫、2000 及川健二「ゲイ パリ」長崎出版、2006 礫川全次「男色の民俗学」批評社、2003 伊藤文学「薔薇ひらく日を」河出書房新社、2001 リリアン・フェダマン「レスビアンの歴史」筑摩書房、1996 稲垣足穂「少年愛の美学」河出文庫、1986 ミシェル・フーコー「同性愛と生存の美学」哲学書房、1987 プラトン「饗宴」岩波文庫、1952 伏見憲明「ゲイという経験」ポット出版、2002 東郷健「常識を越えて オカマの道、70年」 ポット出版、2002 ギルバート・ハート「同性愛のカルチャー研究」現代書館、2002 神坂次郎「縛られた巨人」新潮文庫、1991
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