匠雅音の家族についてのブックレビュー    無敵のハンディキャップ−障害者が「プロレスラー」になった日|北島行徳

無敵のハンディキャップ
障害者が「プロレスラー」になった日
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著者:北島行徳(きたじま ゆきのり) 文春文庫、1999(1997)年   ¥514−

著者の略歴−1965年東京都に生まれる。高校を1年で中退し、アルバイト生活を送るかたわら、ボランティア活動を始める。91年、障害者プロレス団体「ドッグレツグス」を旗揚げし、代表に就任。毎日新聞社学生新聞部で「毎日中学生新聞」の契約記者を4年間勤めたのち、97年2月からフリーランスとなる。98年、処女作の本書『無敵のハンディキャップ』により第20回講談社ノンフィクション賞を受けた。
 身体障害者は天使でもなければ、根っからの善人でもない。
ごく普通の人間に過ぎない。だから酒も飲めば喧嘩もする。
もちろん良いこともする。
障害者とは人格を云々する言葉ではなく、単に身体が不自由だというに過ぎない。
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 私がボランティアを始める前に障害者に対して持っていたイメージは、きっと多くの人と変わらないことだろう。メディアが作り上げた障害者像の影響を受け、「体が不自由でも心は綺麗で一生懸命に生きている人たち」と思っていた。しかし、実際に接してみると、そんなイメージは吹き飛ばされることになる。金を使って女の子のボランティアばかりを家に集めてハーレムを作ったり、自分で用は足せるはずなのに、わぎわさ女の子にトイレ介助をやらせたりする男の障害者たちがいた。酒を飲んで大暴れをしたり、金を借りたら返さない障害者たちもいた。初めは何て連中だと呆れたが、次第に憎めなくなり、いつしかその無軌道ぶりを楽しめるようになった。P24

 身体が不自由だということは、この世を生きていく上では、大変な困難がある。
それはどんなに強調しても、強調しすぎと言うことはない。
健常者は当然のように、就職し、結婚をするが、
障害者が同じよう行動するのは不可能に近い。
和製フェミニズムのいう女性弱者の比ではない。
重度の障害者は、他人の介護がなければ、日々生きることすらできない。

 福祉業界と言われる善意あふれる人たちがいる。
彼らの障害者に差しだす視線は、弱者救済を美化し、
なかば自己満足のためにボランティアを行っている。
福祉に従事するのは立派な人だという建前から、
わが国で福祉というと何となく胡散臭い印象がある。
そのうえ、福祉を恵んでやるから、受けている人は黙って好意を受けるべきだ。
そんな空気があって、福祉に何となくなじめない、と私は別の所でも書いた。

 確かに障害者は、圧倒的に生活力がない。
言葉の意味のとうりに、社会的な弱者である。
しかし、弱者が弱者に居座ったら、決して一人前の人間とはならない。
自ら弱者だと認めることは、自立を放棄することでさえある。
櫻田淳氏の「弱者救済の幻影」でもわかるように、障害者たちは自らの足で立ち上がり始めた。

 本書は<プロレス>をつうじての自立をはかった記録である。
 
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「まぁ、それも、そうだとおもいますよ。でも、しゅうしょくして、けっこんして、こどもをつくって、というのは、ぼくのゆめなのですね」
「……夢?」
「そう、ぼくのゆめ、なのです」
 その言葉を聞いて、私は複雑な心境になった。スポットライトに照らされて、百人以上の観客から拍手と歓声を送られている慎太郎(=プロレスラー)の姿が脳裏に浮かんだ。健常者でも、ほんの一握りの人しか味わえないであろう体験をしても、慎太郎の心は満ち足りていないのである。本当に欲しいのは障害者としての華やかな舞台ではなく、健常者としての当たり前の日常なのだ。P98


 下から見上げる目は、屈折せざるを得ない。
健常者ですら味わえないような歓声を浴びながら、
障害者プロレスラーの慎太郎氏は、いわゆる普通の生活を夢見る。
それは戦争中の日系二世が、普通のアメリカ人兵士以上にアメリカ人たろうとし、
危険な任務にも進んで志願していった状況と同じである。

 慎太郎氏の夢を笑うつもりは毛頭ない。
それにしても、障害者への視線はきわめて難しい。
介助がなければ日常生活が困難な人に、介助なしに自立せよと言うのは、
動くなと言っているに等しいし、
働いて自活せよと言うのは死ねと言っているに等しい。
しかし、生まれたときから介護されてくると、介護されるのが当たり前となる。
だから伴侶を探す時になっても、障害が重くない女性でも、
家事はできないので全部やって欲しい、という要求になってくる。
あまりの介護は、自立の芽を摘んでしまう。
 
 藤田(=プロレスラー)は本当に自信に満ちあふれているように見えた。明るいようでいても、どこか影のあるドツグレッグスの障害者レスラーたちとは、雰囲気が違うのである。きっと、ボランティアを頼ることなく健常者社会を生き抜いてきた逞しさが、全身からにじみ出ているのだろう。藤田は、障害者レスラーとしてだけでなく、人生の先輩として憤太郎や浪貝にいい刺激を与えてくれるはずだ。P187

 障害者と健常者は違う。
同じ土俵で闘うことは、絶対的に不可能である。
しかし、障害者に同情することは失礼である。
自分と同じように喜怒哀楽をもった人間だとは判っていても、
そして、横並びの視線で見れば良いと判っていても、横並びとは難しい視線である。

 筆者は障害者たちに同情しない。リングの上では、
非情なまでに技をくりだし、障害者たちを痛めつける。
しかし、きわめて暖かいのだ。
 
 障害者の気持ちになって、と健常者が言ったところで、本当のところはわかるわけがない。わかるというのは健常者の傲慢だ。周囲に保護されて生きていながら、健常者は理解してくれないと嘆く障害者がいる。それは甘えだ。障害者と健常者はもちろん、障害者同士でも感情的なもつれは常につきまとう。しかし、人と人との問には、いろいろとあって当然なのだ。むしろ問題なのは、ぶつかり合うことを放棄して生きることではないか。
 障害者と健常者の理想的な関係という問題に、模範解答などあるわけがない。だからこそ答えを探して模索し続けるのだ。P346


 障害者に手加減しない本心でぶつかる筆者は、
既存の福祉団体から誹謗中傷を受けてきただろう。
これからもリング上での予期せぬ事故や、肉体の衰えが早い障害者の老化など、
困難なことにぶつかるだろう。
しかし、本書で見せているように、強かにしかも自然体で生き続けて欲しい。
そして、障害者プロレスの続行が困難になったら、
いつでも潔く止めても良いのだ、と頭の隅においておいて欲しい。

 障害者の自立は少しずつではあるが、着実に進んでいる。
困難な問題に果敢に挑戦し続ける筆者には、心から声援を送りたい。 
(2003.6.6)
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参考:
小浜逸郎「「弱者」とは誰か」PHP新書、1999
櫻田淳「弱者救済の幻影 福祉に構造改革を」春秋社、2002
高柳泰世「つくられた障害「色盲」」朝日文庫、2002
吉田おさみ「「精神障害者」の解放と連帯」新泉社、1983
ビルギット・アダム「性病の世界史」草思社、2003
松本彩子「ピルはなぜ歓迎されないのか」勁草書房、2005
榎美沙子「ピル」カルチャー出版社、1973
ローリー・B.アンドルーズ「ヒト・クローン無法地帯」紀伊国屋書店、2000
沢山美果子「出産と身体の近世」勁草書房、1998
ミレイユ・ラジェ「出産の社会史」勁草書房、1994
ジュディス・ハーマン「心的外傷と回復」みすず書房、1999
小浜逸郎「「弱者」とは誰か」PHP研究所、1999
櫻田淳「弱者救済の幻影」春秋社、2002
松本昭夫「精神病棟の二十年」新潮社、1981
ハンス・アイゼンク「精神分析に別れを告げよう」批評社、1988
小沢牧子「「心の専門家」はいらない」洋泉社、2002
熊篠慶彦「たった5センチのハードル」ワニブックス、2001
正村公宏「ダウン症の子をもって」新潮文庫、2001 
高柳泰世「つくられた障害「色盲」」朝日文庫、2002
加藤康昭「日本盲人社会研究」未来社、1974
北島行徳「無敵のハンディキャップ」文春文庫、1997
アリス・ミラー「闇からの目覚め」新曜社、2004
御木達哉「うつ病の妻と共に」文春文庫、2007

赤松啓介「非常民の民俗文化」ちくま学芸文庫、2006
黒岩涙香「畜妾の実例」社会思想社、1992
酒井順子「少子」講談社文庫、2003
木下太志、浜野潔編著「人類史のなかの人口と家族」晃洋書房、2003
鬼頭宏「人口から読む日本の歴史」講談社学術文庫、2000
P・ウォーレス「人口ピラミッドがひっくり返るとき」草思社、2001
鈴木了司「寄生虫博士の中国トイレ旅行記」集英社文庫、1999
速水融「歴史人口学で見た日本」文春新書、2001
中山二基子「「老い」に備える」文春文庫 2008

フィリップ・アリエス「<子供>の誕生」みすず書房、1980
菊田幸一「日本の刑務所」岩波新書、2002
マイケル・ルイス「ネクスト」アスペクト、2002
小田晋「少年と犯罪」青土社、2002

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