匠雅音の家族についてのブックレビュー    ダウン症の子をもって|正村公宏

ダウン症の子をもって お奨度:

著者:正村公宏(まさむら きみひろ) 新潮文庫、2001年  ¥400

著者の略歴−1931(昭和6)年、東京生れ。東大経済学部卒。専修大学教授。社 団法人現代総合研究集団会長。専攻は、経済政策論、日本経済論。’70年代以来、規制改革、地 方分権、社会保障改革、教育改革など日本の社会経済システムの転換に向けて提言をつづけている。著書は、『 戦後史』『改革とは何か』『福祉国家から福祉社会へ』『世界史のなかの日本近現代史』『現代の経済政策』『成 熟社会への選択』『日本をどう変えるのか』など多数。
 身体障害者は少しずつ社会へでることができるようになった。
バリアーフリーとか、ユニバーサルデザインとかが、
肉体的な障害の解消にはずいぶんと役に立つ。
身体障害者には、着実に暮らしよい世の中になっている。

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しかし、心的な障害=知能障害には、問題が山積みされている。
もちろん、身体の障害と知能障害を、完璧に分けることはできない。
重度の身体障害は、知的障害を伴うことが多いが、
身体障害だけという例もたくさんある。
片足がないとか片腕がないといった、障害は機械の助けが有効であるが、
知能障害には機械の助けはあまり役に立たない。

肉体労働の時代には、身体障害者が差別された。
社会の中心が頭脳労働に移動してくると、むしろ知的障害のほうが重要な問題になってくる。
社会は解決できる問題しか取り上げないので、いまや身体障害は積極的に取り上げるだろうが、
知能障害はこれからますます差別されていくに違いない。
しかし、人間に違いあるわけではない。
知能障害者も普通に生きることができる社会こそ、健常者も健康に生きることができるのである。

 異常な発育の遅れがあった。私たちは、結局、息子が「蒙古症」=ダウン 症であるという事実を認めないわけにはいかなかった。 「こういう子は長くは生きない、とくに、この子のように心臓の奇型を 伴う場合には、短命にならざるをえない」といわれたことは、せめてもの救いとさえ考えられなくもなかった。 これからの生活を思えば、彼が生きつづけることは、なによりも彼自身にとって、深刻に不幸なこと でしかありえないように思われたからである。とくに家内には、先は真暗闇にしか感じられなかったと思う。P14

というところから、

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 彼がいなければ、もっと気楽ではあるだろうが、何とはなしに、淋しく、また空し いこともあるのではないだろうか、と家内が旅先でふと語ったことがある。P119 彼のお蔭で、人間について、そして社会について、こんなにも沢山のことを考えさせられたという 気持、それが、私と彼をより強く結びつけ、母親と彼をより強く結びつけ、そして、私たち家族全体をより強く結び つけている、ということになるだろうか。P242

ここまでくるのには、本当に大変な毎日だったろう。
本書は、たんたんと日々の事実が記されているだけだが、
それだけに家族の困難さに圧倒される。
どんなに重い障害であっても、決して投げ出すことはできないと思う親の愛情と執念、
それにもう涙するだけである。

 涙すると言ったからといって、彼らをかわいそうだと思うのではない。
同情は不要だと思う。
同情ではなしに、理解すべきなのだ。
健常者もいつだって障害者になる可能性がある。
健常な部分だけが人間ではない。
健常と障害は、分離不能である。
健常と障害のあわせたものが、人間である。
丸ごと理解しなければ、人間など理解できるはずがない。

  障害を負った人々を社会から隔離して保護するという方法 のみを追い求め、町のなかにいわゆる健常者ばかりを残してしまうような政策をとることは、実は、私たちの町を異常 な社会にしてしまうことになるのである。 実際に、障害を負った人々や、高齢化して不自由な生活をしている人々と身近に接する機会をも たないで成長していく子どもたちは、どのようにして人間的な心と知恵をもちうるのだろうか。P228

 筆者の言うとおりである。
我が国の福祉政策は、かつてに比べれば遥かに良くなった。
ダウン症の子供でも死なずにすむようになった。
施設も拡充されてきた。
もっともっとそのままの人間を、人間として扱うようになってほしい。
若い人たちのなかには、確実にそうした芽が育っている。
 本書の主人公・正村隆明氏が生まれたのは、1963年である。
本書が書かれたのは1981年である。
ダスティン・ホフマンが「レインマン」で、レイモンドを演じたのは1988年である。
着実に知的障害者にも目が向いている。
知的障害を社会内存在と見なければ、情報社会が崩壊することは間違いない。
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参考:
ビルギット・アダム「性病の世界史」草思社、2003
松本彩子「ピルはなぜ歓迎されないのか」勁草書房、2005
榎美沙子「ピル」カルチャー出版社、1973
ローリー・B.アンドルーズ「ヒト・クローン無法地帯」紀伊国屋書店、2000
沢山美果子「出産と身体の近世」勁草書房、1998
ミレイユ・ラジェ「出産の社会史」勁草書房、1994
ジュディス・ハーマン「心的外傷と回復」みすず書房、1999
小浜逸郎「「弱者」とは誰か」PHP研究所、1999
櫻田淳「弱者救済の幻影」春秋社、2002
松本昭夫「精神病棟の二十年」新潮社、1981
ハンス・アイゼンク「精神分析に別れを告げよう」批評社、1988
小沢牧子「「心の専門家」はいらない」洋泉社、2002
佐藤早苗「アルツハイマーを知るために」新潮文庫 2007年
多田富雄「寡黙なる巨人」集英社、2007
熊篠慶彦「たった5センチのハードル」ワニブックス、2001
正村公宏「ダウン症の子をもって」新潮文庫、2001 
高柳泰世「つくられた障害「色盲」」朝日文庫、2002
加藤康昭「日本盲人社会研究」未来社、1974
北島行徳「無敵のハンディキャップ」文春文庫、1997
アリス・ミラー「闇からの目覚め」新曜社、2004
御木達哉「うつ病の妻と共に」文春文庫、2007

M・ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」岩波文庫、1989
アンソニー・ギデンズ「国民国家と暴力」而立書房、1999
江藤淳「成熟と喪失:母の崩壊」河出書房、1967
桜井哲夫「近代の意味:制度としての学校・工場」日本放送協会、1984
G・エスピン=アンデルセン「福祉国家の可能性」桜井書店、2001
G・エスピン=アンデルセン「ポスト工業経済の社会的基礎」桜井書店、2000
桜井哲夫「近代の意味:制度としての学校・工場」日本放送協会、1984
ソースティン・ヴェブレン「有閑階級の理論」筑摩学芸文庫、1998
オルテガ「大衆の反逆」白水社、1975
E・フロム「自由からの逃走」創元新社、1951
アラン・ブルーム「アメリカン・マインドの終焉」みすず書房、1988
イマニュエル・ウォーラーステイン「新しい学」藤原書店、2001
田川建三「イエスという男」三一書房、1980
ポール・ファッセル「階級「平等社会」アメリカのタブー」光文社文庫、1997
橋本治「革命的半ズボン主義宣言」冬樹社、1984
石井光太「神の棄てた裸体」新潮社 2007
梅棹忠夫「近代世界における日本文明」中央公論新社、2000
小林丈広「近代日本と公衆衛生」雄山閣出版、2001
前田愛「近代読者の成立」岩波現代文庫、2001
黒沢隆「個室群住居」住まいの図書館出版局、1997
フランク・ウェブスター「「情報社会」を読む」青土社、2001
ジャン・ボードリヤール「消費社会の神話と構造」紀伊国屋書店、1979
エーリッヒ・フロム「自由からの逃走」創元新社、1951
ハワード・ファースト「市民トム・ペイン」晶文社、1985
成松佐恵子「庄屋日記に見る江戸の世相と暮らし」ミネルヴァ書房、2000
デビッド・ノッター「純潔の近代」慶應義塾大学出版会、2007
北見昌朗「製造業崩壊」東洋経済新報社、2006
小俣和一郎「精神病院の起源」太田出版、2000
松本昭夫「精神病棟の20年」新潮文庫、2001
斉藤茂太「精神科の待合室」中公文庫、1978
ハンス・アイゼンク 「精神分析に別れを告げよう」批評社、1988
吉田おさみ「「精神障害者」の解放と連帯」新泉社、1983
古舘真「男女平等への道」明窓出版、2000
ジル・A・フレイザー「窒息するオフィス」岩波書店、2003
三戸祐子「定刻発車」新潮文庫、2005
ケンブリュー・マクロード「表現の自由VS知的財産権」青土社、2005
フリードリッヒ・ニーチェ「悦ばしき知識」筑摩学芸文庫、1993
ソースティン・ヴェブレン「有閑階級の理論」筑摩学芸文庫、1998
リチヤード・ホガート「読み書き能力の効用」晶文社、1974
ガルブレイス「ゆたかな社会」岩波書店、1990
ヴェルナー・ゾンバルト「恋愛と贅沢と資本主義」講談社学術文庫、2000
C.ダグラス・ラミス「ラディカル デモクラシー」岩波書店、2007
オリーブ・シュライナー「アフリカ農場物語」岩波文庫、2006
エマニュエル・トッド「新ヨーロッパ大全」藤原書店、1992


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