匠雅音の家族についてのブックレビュー    「弱者」とはだれか|小浜逸郎

「弱者」とはだれか お奨め度:

著者:小浜逸郎(こはま・いつお)−−PHP研究所、1999 ¥657−

著者の略歴−1947年横浜市生まれ。横浜国立大学工学部卒業。家族論、教育論、思想、哲学など幅広く批評活動を展開。主な著書に『オウムと全共闘』(草思社)、『無意識はどこにあるのか』(洋泉社)、『大人への条件』(ちくま新書)、『吉本隆明』(筑摩書房)、『これからの幸福論』(時事通信社)、『正しく悩むための哲学j『この国はなぜ寂しいのか』『いまどきの思想、ここが問題。』(以上、PHP研究所)など多数がある。
 弱者なる概念が、触れてはならないものとなりつつある。
何が弱者について考えるのは、それ自体がきわめて難しい。
下手をすると、弱者を攻撃しているようにとられかねない。
きわめて扱いにくい問題である。
しかし、弱者の定義が曖昧なまま、弱者を語ることはできない。
弱者が意味不明のまま使われることは、知的な怠惰であるし、とても危険なことである。
本書は、その意味では勇気ある試みだし、時機にあった企画だといえる。
TAKUMI アマゾンで購入

 本書は弱者として、老人、子供、障害者、在日外国人、部落出身者、女性とあげてくる。
確かに一般論としては、上記の人々は弱者に分類されるだろ。
しかし、老人といっても元気で裕福な人もいるし、貧乏で衰弱してしまった人もいる。
元気で裕福な老人は、貧乏で衰弱した成人より強者だとすら言える。

 一つの規準でもって、同じ人間を一概に弱者とはいえない、と本書は言う。
私もそれには賛同する。
言葉を表面的な意味でのみ使うことは、怠惰な思考姿勢である。
そして、弱者と一括りにすることによって、批判の声をすべて封じてしまう。

 弱者保護という言葉が、しばしば使われる。
一体、誰が誰を保護するのだろうか。
弱者保護と叫ぶ人には、むしろ自分が強者であるというおごりが、私には感じられる。
保護とは差別の別の表現である。
保護してもらいたい弱者がいるだろうか。

 障害者も健常人と同じように行動できるよう、制度を整えてもらいたいのであって、保護してもらいたいのではない。
弱者は自ら保護して欲しいとは言わないものである。
わが国の女性運動に限界を感じるのは、女性を弱者だと捉えていることである。
自らを弱者だと見なしている限り、決して自立はできない。

広告
 部落出身者に関しては、筆者の姿勢にはやや疑問が残る。
部落出身者はもはや弱者ではなく、むしろ部落であることを強調することが、差別を温存させてしまう、と筆者はいう。
たしかに部落出身者や在日韓国人などにたいして、今の若い人たちは違和感をもっていない。
早晩、この差別は消滅するであろう。
だから、部落や在日韓国人に関しては、触れないほうが良いという著者の論調には与し得ない。
忘れることは、差別の解消ではない。

 部落差別が存在してきたことは事実であり、その歴史を探究することは決して無用ではない。
差別克服のための制度制定には、多大な時間がかかる。
だから、差別の克服にむかって運動が成果を上げたとき、制度が残ってしまうのは仕方ないことである。
そうした時間的なずれを見ずに、部落を語るなかれと言うのは性急に過ぎる。
あまりに性急である著者の姿勢には、反部落・反在日韓国人といった、やや政治的な保守的イデオロギーの匂いが感じられる。

 「差別」は近代の現象、という章において、著者は次のようにいう。

 前近代から近代への大きな社会的流動によって、旧来の規範や秩序では窮屈であり不当だと感じる者が多くあらわれた。その人たちは、「人間は本来平等である」という人権思想を打ち立て、それを武器として、旧社会の弊害を位置づけた。その結果初めて、かつての身分制社会を「差別」というフィルターで把握する文脈が形作られたのである。
 さていったんこの文脈が成立すると、現在の不遇感や不当感が、歴史を解釈するまなざしに吸収され、それが旧社会にそのまま投影されて、旧社会にはひどい差別や人権軽視が行われていた、という見方がとかく単純かつ無反省に漫透しやすい結果となる。だが、ほんとうのところそれが「ひどい差別」であったかどうかはわからない。P117

 この視点は歴史観を否定するものである。
ある時代・ある社会に生きる人間は、その時代や社会からの拘束性を受けている。
だから、差別のあることが当然として生きている。
毎日が過酷な差別に曝されているとは感じていない。
それは当然のことである。
しかしだからといって、当該社会に差別がないかといえば、厳として存在するのである。
個人の才能や努力では、社会秩序を乗り越えられない制度が存在するとき、差別があるというのだ。
でなければ政治的な亡命など成り立ちようがない。

 どんな歴史観も現在から見たものであり、いまを生きる人間に必要なものが歴史観である。
その時代を生きる人間に、差別されている意識があるかないかが、問われるのではない。
あくまで現代の我々が、差別しているかどうかである。
本書は良い企画である。
しかし同時に本書からは、改革的な姿を装いながらも、現状維持的な筆者の保守性=反動性を感じる。
つまり筆者の立場は、弱者サイドに立ってはいない、と感じてしまうのも事実である。
巧妙に隠された反動的言辞である。
広告
  感想・ご意見などを掲示板にどうぞ
参考:
M・ハリス「ヒトはなぜヒトを食べたか 生態人類学から見た文化の起源」ハヤカワ文庫、1997
杉山幸丸「子殺しの行動学:霊長類社会の維持機構をさぐる」北斗出版、1980
エドワード・ショーター「近代家族の形成」昭和堂、1987
フィリップ・アリエス「子供の誕生」みすず書房、1980
J・F・グブリアム、J・A・ホルスタイン「家族とは何か その言説と現実」新曜社、1997
磯野誠一、磯野富士子「家族制度:淳風美俗を中心として」岩波新書、1958
黒沢隆「個室群住居:崩壊する近代家族と建築的課題」住まいの図書館出版局、1997
アラン・ブルーム「アメリカン・マインドの終焉」みすず書房、
I・ウォーラーステイン「新しい学 21世紀の脱=社会科学」藤原書店、2001
レマルク「西部戦線異常なし」新潮文庫、1955
田川建三「イエスという男 逆説的反抗者の生と死」三一書房、1980
ヘンリー・D・ソロー「森の生活」JICC出版局、1981
野村雅一「身ぶりとしぐさの人類学」中公新書、1996
永井荷風「墨東綺譚」新潮文庫、1993
エドワード・S・モース「日本人の住まい」八坂書房、2000
福岡賢正「隠された風景」南方新社、2005
イリヤ・プリゴジン「確実性の終焉」みすず書房、1997
エドワード・T・ホール「かくれた次元」みすず書房、1970
オットー・マイヤー「時計じかけのヨーロッパ」平凡社、1997
ロバート・レヴィーン「あなたはどれだけ待てますか」草思社、2002
増川宏一「碁打ち・将棋指しの誕生」平凡社、1996
宮本常一「庶民の発見」講談社学術文庫、1987
青木英夫「下着の文化史」雄山閣出版、2000
瀬川清子「食生活の歴史」講談社、2001
鈴木了司「寄生虫博士の中国トイレ旅行記」集英社文庫、1999
李家正文「住まいと厠」鹿島出版会、1983
ニコル・ゴンティエ「中世都市と暴力」白水社、1999
武田勝蔵「風呂と湯の話」塙書店、1967
ペッカ・ヒマネン「リナックスの革命」河出書房新社、2001
匠雅音「家考」学文社

M・ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」岩波文庫、1989
アンソニー・ギデンズ「国民国家と暴力」而立書房、1999
江藤淳「成熟と喪失:母の崩壊」河出書房、1967
桜井哲夫「近代の意味:制度としての学校・工場」日本放送協会、1984
G・エスピン=アンデルセン「福祉国家の可能性」桜井書店、2001
G・エスピン=アンデルセン「ポスト工業経済の社会的基礎」桜井書店、2000
桜井哲夫「近代の意味:制度としての学校・工場」日本放送協会、1984
ソースティン・ヴェブレン「有閑階級の理論」筑摩学芸文庫、1998
オルテガ「大衆の反逆」白水社、1975
E・フロム「自由からの逃走」創元新社、1951
アラン・ブルーム「アメリカン・マインドの終焉」みすず書房、1988
イマニュエル・ウォーラーステイン「新しい学」藤原書店、2001
ポール・ファッセル「階級「平等社会」アメリカのタブー」光文社文庫、1997
橋本治「革命的半ズボン主義宣言」冬樹社、1984
石井光太「神の棄てた裸体」新潮社 2007
梅棹忠夫「近代世界における日本文明」中央公論新社、2000
小林丈広「近代日本と公衆衛生」雄山閣出版、2001
前田愛「近代読者の成立」岩波現代文庫、2001
フランク・ウェブスター「「情報社会」を読む」青土社、2001
ジャン・ボードリヤール「消費社会の神話と構造」紀伊国屋書店、1979
エーリッヒ・フロム「自由からの逃走」創元新社、1951
ハワード・ファースト「市民トム・ペイン」晶文社、1985
成松佐恵子「庄屋日記に見る江戸の世相と暮らし」ミネルヴァ書房、2000
デビッド・ノッター「純潔の近代」慶應義塾大学出版会、2007
北見昌朗「製造業崩壊」東洋経済新報社、2006
小俣和一郎「精神病院の起源」太田出版、2000
松本昭夫「精神病棟の20年」新潮文庫、2001
斉藤茂太「精神科の待合室」中公文庫、1978
ハンス・アイゼンク 「精神分析に別れを告げよう」批評社、1988
吉田おさみ「「精神障害者」の解放と連帯」新泉社、1983
古舘真「男女平等への道」明窓出版、2000
三戸祐子「定刻発車」新潮文庫、2005
ケンブリュー・マクロード「表現の自由VS知的財産権」青土社、2005
フリードリッヒ・ニーチェ「悦ばしき知識」筑摩学芸文庫、1993
ソースティン・ヴェブレン「有閑階級の理論」筑摩学芸文庫、1998
リチヤード・ホガート「読み書き能力の効用」晶文社、1974
ガルブレイス「ゆたかな社会」岩波書店、1990
ヴェルナー・ゾンバルト「恋愛と贅沢と資本主義」講談社学術文庫、2000
C.ダグラス・ラミス「ラディカル デモクラシー」岩波書店、2007
オリーブ・シュライナー「アフリカ農場物語」岩波文庫、2006
エマニュエル・トッド「新ヨーロッパ大全」藤原書店、1992


「匠雅音の家族について本を読む」のトップにもどる