著者の略歴− 1987年京都大学大学院文学研究科博士課程退学(専攻 社会学)、現在 甲南女子大学文学部助教授、著書「ジェンダーで学ぶ社会学」(共著)世界思想社、1997年(近刊)ほか 家族研究の現状を整理したものだが、古い感覚にいささかゲンナリしてしまう。 1956年生まれだから、そんなに年寄りではない。 本書を上 本書を上梓したのは40歳の時だから、まだまだ若かったはずである。 にもかかわらず、資料整理の域を出ていないのだ。
宮迫千鶴の「サボテン家族論 」を読んだばかりだったので、時代を見る目のなさに落胆しながら読んだ。 アリエスの「<子供>の誕生」をきっかけに、家族史研究は大きな発展を見た。 家族の形態という面と、家族の意識という面で、きわだった成果が上がっているという。 前者はケンブリッジ派などの教区簿冊を利用した研究のことで、核家族化が前近代から進行していたというものだ。 我が国では、その流れは「歴史人口学で見た日本」などを書いた速水融と、その弟子たちに受け継がれている。 後者はアリエスやショーターに関するもので、ダイアナ・ギティンスの「家族をめぐる疑問」のリピートである。 筆者は、西洋諸国での家族研究にくわえて、我が国独自のものとして、<家>をもちだす。 西洋諸国の近代化を追った、我が国の後進性というか、ズレといったものを記述していく。 そのうえに、女性の視点をくわえるという、パターン化したものだ。 2000年以前には、こんなものでも本になったのだと驚く。 優等生的な目配りがきいており、いかにもの教科書である。 女性の社会的進出の増大が伝統的な家族形態の崩壊をもたらすという見方があるが、女性の生産活動からの撤退こそが逆に18世紀以降に起こった特殊な事態である。親子間に生ずる葛藤は、近代の家族の愛情の強調が一種の強迫にまで至った結果生じるようになったといえるかもしれないし、現代の夫婦の危機はむしろ、孤立した家族の中で夫婦が共有するのが互いの間の性的・情緒的満足のみであってしかも「ロマンティック・ラブ」の信念によりその完全なる充足が常に期待されることから生ずる当然の帰結である。したがって夫婦が互いに独立した経済的基盤を持ち家庭から離脱した生活領域を持つこと、子どもが両親とよりもピア・グループとの心的結合を深めたりするのは、「家族の崩壊」ではなく、より緩やかな構造を備え情緒関係のそれほど凝縮的ではない、新しいタイプの家族の一つの選択肢であると見なすことができる。現代の家族の変動は、家族そのものの解体ではなく、単に「近代家族」的な家族の終焉の予兆であるに過ぎないのかもしれない。P10
近代家族をどう捕らえるか、家とは近代家族であったのか、といった過去の話に終始する。 一般に<家>は封建制の残滓であり、磯野誠一などが「家族制度:淳風美俗を中心として」で書くように、打倒すべき対象であった。 しかし、筆者は<家>にも近代家族の片鱗を見いだす。 筆者の発想は西洋がお手本だから、我が国の家族を論じるにあたっても、西洋の家族からの距離でしか論じることができない。 家制度がなかった西洋をもちだすためには、どうしても家を処理しておかなければならないのだ。 その結果が、家のなかに近代家族を見つける作業になっている。 現在のところ日本においては、国家は老人福祉政策の方向に見られるように、再生産単位としての家族をむしろ強化しようとしているし、税制・扶養等の点においても妻と夫の相補性を保持しようとしているようにみえる。しかし先進国の動きを見れば、国家が管理の単位を家族から個人に移すのは動かしがたい潮流であるし、日本においても戸籍制度は保持しながらも夫婦別姓を認める方向で民法改正の動きが始まっているように、この流れに無縁ではありえないだろう。P44 と考えれば、西洋諸国が家族から個人へと単位を動かしているのに、なぜ我が国だけが家族を強化しようとしているのか、が問われなければならない。 しかし、筆者はこうした問題から離れて、結局、ふるい歴史へと埋没していく。 それでいながら、<女性である>視点を持ち込むから、どうしても女性原理主義的な展開になってしまう。 性別や性差を、ジェンダーという言葉でごまかしているのも、事実を見る前に願望を入れているあらわれだろう。 3部構成になっている本書の、3部ではもっぱら女性問題の扱いに終始している。 女性学者たちが、女性であることから発想することは、学者として無能だと言っているに等しい。 研究方法として、雑誌や新聞などの刊行物から、家族のあり方をみるのはあり得る。 しかし、活字の影響力が浸透するのは社会の一部であり、活字面で言われることと現実の社会とは、いささかの乖離があるのだ。 いくら大衆小説で読まれたとしても、現実はどうだったのだろうか。 アリエスが表現された絵画などを研究したとしても、筆者の研究している時代とは違う。 斉藤美奈子の「モダンガール論」のほうが、はるかにビビッドであるし、現実によく迫っている。 (2009.12.2)
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