匠雅音の家族についてのブックレビュー     ハイブリッドな子供たち−脱近代の家族論|宮迫千鶴

ハイブリッドな子供たち
脱近代の家族論
お奨度:☆☆

著者:宮迫千鶴(みやさこ ちづる) 河出文庫 1991(1987)年 ¥480−

著者の略歴−1947年、広島県生れ。広島県立女子大学国文科卒業。画家として作品制作のかたわら、美術評論、女性論、家族論など評論活動も展開。主な著書に、『≪女性原理≫と「写真」』『超少女へ』『ママハハ物語』『少女物語』などがある。
 両親が離婚して、筆者は父方に引き取られた。
その後、男手一つで育てられたので、父子家庭といういわば欠損家庭だった、と筆者は言う。
多くの家庭が男女の両親がそろっており、離婚していないことが普通だった。
それに対して、筆者の両親は離婚したので、筆者の暮らした家庭は普通ではなかった、と当時は見なされていた。
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ハイブリッドな子供たち

 現在では、ニコニコ離婚講座もあったし、もはやバツイチはそれほどの注目を集めない。
しかし、筆者の子供時代は、離婚は悪いことであり、世間の偏見を一身に集めた。
1人の男に1人の女を与え、男には稼がせ、女には家事と夜伽を生業とさせた。
それが近代家族だと、筆者は小さな頃から喝破していた。

 1987年に本書が書かれたことを考えると、筆者の視点はなかなかに鋭い。
多くは普通ではない状態に置かれると、日系アメリカ人たちがアメリカ人以上の闘いぶりを見せたように、普通になろうとして普通以上の頑張りを見せる。
しかし、頑張ったところで、両親の離婚が元の鞘に収まるわけではない。
筆者は近代家族を相対化した地点に、自分を置いたのである。
そうすると、家族制度がよく見えてきた。

 戦後、家父長制度はたしかに制度としては姿を消した。男も女も自由意志で配偶者を選び、核家族をつくる自由が保証された。しかしそれはエクステリアが民主主義制度というものに変化しただけで、ハウスの内側すなわちホームのインテリアには、家父長制度の残滓が残っていた。
 もちろんそれは時代おくれのインテリアのようなものだったが、わが世代の多くの父も母もその時代おくれのインテリアから自由であったわけではない。その結果、そのインテリアのもとで育った娘たちは旧式の「女らしさ」の呪縛を、息子たちは旧式の「男らしさ」の呪縛を、それぞれ身体化させられてしまった。
 いってみればわが世代の男も女も家(ハウス)の外部では民主的男女平等を身につけ、家庭(ホーム)では夫唱婦随を身体化させられた。恋愛中というのは、家(ハウス)の外でコミュニケートしていたわけだから、とりあえず民主的男女平等原理は守られた。しかし、結婚し、家庭という場で生活しはじめると、たがいに身体化していた旧式の原理が露出しはじめ、奇怪な家父長制度が再生産されているというのである。P25


 この構造は、おそらく現在でも変わっていないだろう。
男性が家事をして、女性が稼ぐ家庭は、まだ少ないはずである。
性別役割分業が崩れてきたとはいえ、我が国では男女の役割分担が残っている。
筆者の鋭いところは、エクステリアのみ問題にする人が多いなかで、家庭内外の矛盾として捉え、しかもエクステリアよりインテリアを重視したことだ。

 多くの大学フェミニストたちには、フェミニズムは外来のファッションにすぎなかった。
そのため、筆者のように自分の身からでた思想になっていない。
フェミニズムは研究材料だったり、売り出すための手段に過ぎなかった。
だから借り物に過ぎず、自分の都合のいい部分だけを、摘み食いした。
家族を考えるより、女性であることを問題にしたので、結局、働く女性たちから見捨てられてしまった。
筆者は自分の問題として、ウーマン・リブ→フェミニズムを捉えている。

 それにしても、筆者のスタンスがなぜ一般化しないのだろう。
もちろん当時は、筆者のような立場は少数派だったとはいえ、多くの女性たちは「核家族」の欺瞞性に気づいていたはずである。
にもかかわらず、女性一般の問題としてしか、フェミニズムを考えなかった。
女性一般の問題としたほうが、注目されたし、運動を組みやすかったのだろう。
しかし、女性一般という問題設定のために、母性保護をいう運動からどうしても脱皮できなかった。

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 我が国の女性運動が、1人前の人間として立てない原因は、やはり女性のほうにある。
1人の個人であろうとする前に、女性であることを掲げてしまうので、大学フェミニズムは性別役割分業に荷担してしまっている。
女性研究者たちは、まじめに女性のことを考えれば考えるほど、<女性である>ことに拘り、社会性からますます遠ざかっていく。
その結果、働く女性と専業主婦に分断されてしまった。

 女性が職業人として稼げなければ、男女平等はあり得ない。
核家族のなかで性別役割分業に従っているかぎり、絶対に女性は解放されない。
筆者の言葉に従えば、インテリアをエクステリアと同様にし、内外で別の論理を使い分けずに済むようにするのだ。
インテリアが民主化されないかぎり、子供は内外の矛盾に晒され続けるし、女性はつまり男性も解放されない。

 筆者は血縁家族に対して、血縁で結ばれない家族を<ポスト・ファミリー>と名付けて、両者の棲み分けを提唱する。
このあたりは古く、時代を感じるが、気持ちは良く理解できる。
古い核家族に満足している人を、批判するほど暇人ではないということなのだろう。
筆者は、核家族の先を求めて、模索していたのだ。

 親子に対する見方も、そうとうに鋭い。
多くの人は、子供の瑕疵を責めるが、筆者は親の子離れを言う。
親世代を批判することは、親不孝といわれかねないので、筆鋒が鈍りがちである。
また自分が老人になるので、天に唾するようで、強く言えないのだ。

 高齢化社会は、近代医学のサポートによって儒教道徳に支えられた″子に従わない親″を輩出しているともいえるところがある。もちろん
″子に従わない親″が、自立した老後を生きているのであればまだよい。だが生活は自立していても意識が<親>でありつづけるかぎり、絶対性には変りない。
 いやはや暗い話で申しわけないのであるが、四世代家族を経験した私は、祖母の死によって、つくづくとニッポンにおける<親>の卒業式を設けなければならないと痛感したのである。P123


 親子に関してシビアなら、女性に対しても冷静に見ている。この冷静さが、大学フェミニズムに欲しかったのだ。人間として自立すれば、自由の裏側には孤独が張り付いている。女性を弱者というばかりではなく、自由と孤独を飼い慣らすすべを、女性として考えるべきだった。

 ″生殖用″の性に閉じこめられてきた女たちが、自らの″遊戯性″を求めてひき起しているいわゆる妻たちの不倫や売春というのは、かつて「近代」において男たちがさいなまれた強迫神経症と同じ状態に自分を置くことを意味する。(中略)生殖と快楽をともに自分の手につかむこと、それはとりもなおさず、女だけの問題ではなく、男とともに立ち向わねばならないものである。男と女がともに、「近代」の大日本帝国の欺瞞的性支配から手に手をとって逃走しないかぎりは、何ものも生れない。しかし残念ながら、妻たちと夫たちはそれぞれ別々の強迫神経症にさいなまされつつ、家庭崩壊を拡大しているのが現実のようである。P199

と言って、男女が性の不毛を、相手のせいにしているかぎり、解放はないと結ぶ。
そのとおりである。
解放は自分の手でつかむものであり、けっして相手を攻撃して得られるものではない。
女性が女性自身を、批判的に見る筆者の視点も、大学フェミニズムにはないものだ。

 離婚したり死別によって、親を失った子供には、偏見と同時に同情も集まる。
しかし、家庭内離婚で育つ子供は、もっと悲劇なのだ。
家庭内離婚の子供には、欠損家庭以上の歪みが生じているが、親がいるだけでも感謝せよと言われてしまう。
一度、筆者と話したかった。「サボテン家族論」といい、 筆者の早世がとても悔やまれる。
  (2009.12.15) 
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参考:
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信田さよ子「脱常識の家族づくり」中公新書、2001
黒沢隆「個室群住居:崩壊する近代家族と建築的課題」住まいの図書館出版局、1997
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ジョージ・P・マードック「社会構造 核家族の社会人類学」新泉社、2001
S・ボネ、A・トックヴィル「不倫の歴史 夢の幻想と現実のゆくえ」原書房、2001
石坂晴海「掟やぶりの結婚道」講談社文庫、2002
マーサ・A・ファインマン「家族、積みすぎた方舟」学陽書房、2003
上野千鶴子「家父長制と資本制」岩波書店、1990
斎藤学「家族の闇をさぐる」小学館、2001
斉藤学「「家族」はこわい」新潮文庫、1997
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ジュディス・レヴァイン「青少年に有害」河出書房新社、2004

川村邦光「性家族の誕生」ちくま学芸文庫、2004
菊地正憲「なぜ、結婚できないのか」すばる舎、2005
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下田治美「ぼくんち熱血母主家庭」講談社文庫、1993
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加藤秀一「<恋愛結婚>は何をもたらしたか」ちくま新書、2004
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松原惇子「ひとり家族」文春文庫、1993
森永卓郎「<非婚>のすすめ」講談社現代新書、1997
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斎藤学「「夫婦」という幻想」祥伝社新書、2009

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宮迫千鶴「サボテン家族論」河出書房新社、1989
牟田和恵「戦略としての家族」新曜社、1996
吉廣紀代子「非婚時代」朝日文庫、1987
匠雅音「核家族から単家族へ」丸善、1997

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